ビルマ
キャニー少将(インド国民軍の師団長)の言葉


「日本は戦争が下手で、大本営が石頭だ。

 ビルマの独立でもインドの独立でも、それぞれの民族にまかせればよいのに
 なかなか独立を許さず、皆自分でやろうとする。

 何もかも自分でやれるものではないのに。

 日本がシンガポールを陥落させた時、降伏したインド兵をインドに前進させるとよかった。

 あの時、イギリス軍は風前の灯火だった。

 あとはわれわれにまかせてくれれば、
 独立の波は怒涛のようにインド国内に広がっていただろう。

アレキサンダー大王が短期的にあれだけ成功をおさめたのは、
 現地人を信頼してまかせたからだ。

巧妙にタイミングを計ったからだ。」






サー・ウィンストン・L・S・チャーチル(イギリス 元首相)の言葉




昭和17年5月31日、大日本帝国海軍の特殊潜航艇二隻(4人)が、
マダガスカルの北端にあったディゴスワレズというイギリスの軍港を奇襲した。

そのときは、戦艦一隻大破、大型輸送船一隻撃沈という成果を挙げた。

このことに対して、チャーチルは次のように讃えた。

「二人の軍人は祖国のために献身し、類まれな功績をたてた」


    (「第二次大戦回顧録」)」




バ・モウ(初代ビルマ首相)

 
「真実のビルマ独立宣言は、1948年1月4日ではなく、
1943年8月1日に行われたのであって、
真のビルマの解放者はアトリーの率いる労働党政府ではなく、
東条大将と大日本帝国政府であった。」


歴史的にこれを見るならば、
 日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。

 しかしまた、その解放を助けたり、
 あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから
 日本ほど誤解を受けている国はない。

 これはまた日本が、その武力万能主義者と民族の夢想とのために譲られたためである。

 もし日本が武断的独断と自惚れを退け、開戦当時の初一念を忘れず、
 大東亜宣言の精神を一貫し、
 南機関や鈴木大佐らの解放の真心が軍人の間にもっと広がっていたら、
 いかなる軍事的敗北もアジアの半分、
 否、過半数の人々からの信頼と感謝とを日本から奪い去ることはできなかったであろう。
 日本の為に惜しむのである。」

    (バー・モウ 「ビルマの夜明け」)



バー・モウの著「ビルマの夜明け」の中から

指揮者タキン党のコドー・マイン、共産主義者のタン・トン、戦後の初代ビルマ首相となった
ウー・ヌ等の言葉

「それは言葉では言い表わさせないほど幸せな日々だった。

人々は喜びに胸を膨らませて、いたる所で歌った。

国民こぞってこれを祝うために、各地域社会を代表する委員会が設けられた。

くる日もくる日も群集がバゴダを訪れて灯明をあげ、花を捧げた。

僧たちは、町中で振舞を受け、催物は果てしなく続いた。

人々は集い、日本語で「万歳」を叫んで、日本に対する深い感謝を現す決議をした。

同時に、喜びと感謝の気持ちを綴ったメッセージを東条首相と日本政府に送られた」

   (バー・モウ  「ビルマの夜明け」)




ロンドン・タイムス図書週報(1968年5月23日号)より

「ビルマの夜明け「についての書評  


「ビルマを長いイギリスの植民地支配から解放したものは誰か。

それはイギリスでは1948年、アトリー首相の労働党内閣だというのが常識になっている。

しかしバー・モウ博士は、この本(ビルマの夜明け)の中で
全く別の歴史と事実を紹介し、日本が第二次世界大戦で果たした役割を
公平に評価している。」





 

ウ・キムという青年の言葉

「ビルマの本当の独立が、1943年(昭和18年)だった。

あのときの昂奮に比べれば、1948年にイギリスによって与えられた独立は
アルコールの抜けたワインのようなものだった。

酔えなかったと私の父は言っていた。」






ボー・ヤン・ナイン(ボー・モウ博士の長女婿 ビルマ ボー・モウ長官の副官)の言葉
(遺族の言葉)

「バー・モウ博士は、生涯に四回捕らえられて、獄中に入れられた。

最初に捕らえられたのがイギリスであり、日本敗戦後は巣鴨(アメリカ)、
そして、ビルマではウ・ヌーとネ・ウィンの両政権下に捕らえられた。

しかし、終始、日本には尽くした。

日本がインパール作戦で失敗しても、日本を裏切らなかった。

特に日本が特攻隊を繰り出して戦った時には、小磯国昭首相の招きもあり、
日本に出かけて激励し講演した。(昭和19年11月)

ビルマに帰ってからも、国民に特攻精神を強調した。

彼は世界におけるもっとも知日派の一人であった。」


「バー・モウが生前述べていたことだが、彼の生涯には二つの誤算があった。

一つは、元来哲学者なのに、反英暴動の弁護を引き受けたために、
財産をはたして独立運動に挺身し、心ならずも乱世の政治家になったこと。


二つ目は、日本が勝つと信じて日本に賭け、その日本が敗れたこと」


「彼は生まれるのが二十年早すぎた。

そのために戦争を指導する政治家になってしまった。

彼が戦後ビルマ政界に登場していたら、ネールや周恩来等と渡り合って
ビルマの国際的地位をもって高めていたであろう。」




タキン・バ・セイン(ビルマ、タキン党党首。元副首相)の言葉
 
 ビルマタキン党党首としてビルマの独立を目指したが
イギリスに投獄されること5回、日本がビルマに進駐してからは
一時、バー・モウ内閣の交通灌漑大臣になった。
権力がバー・モウ政権に集中することに反対し、
王制復古を主張した。

そのため、バー・モウから遠ざけられ、日本敗戦後は英軍の追及を逃れて
来日、インドネシアのバンドンに日本人によってかくまわれた。


「賠償金はイギリスからとるべきだ。

 ビルマを搾取し続けたイギリスから奪って、

 それを植民地主義政打破を実現して敗戦した日本に与えるべきだ。

 自分が政権をとったら必ず実現してみせる」
 





 
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