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台湾と日本
許国雄(台湾東方工商専科学校学長)の言葉


「近現代のアジア史において、日本の果たした役割はすばらしい。

どうしてこのことを忘れておわびばかりするのか。

かつての日本はアジアに輝く太陽のような存在であった。

その責任を感じた日本は国家の総力をあげて戦った。

このことを、なぜ子供たちに教え、世界にも訴えないのか。」


「そもそも歴史を貫く日本民族の世界的使命は何か。

これを忘れたら、民族が地球上に存在する理由がないではないか。」




李 登輝・元台湾総統の言葉

 『二十二歳になるまでは、私も生まれながらの「日本人」でした』
 
 『台湾の今日あるは、日本のお陰である』
  
(李登輝『「武士道」解題』p14、p20)





一台湾女性の思い出

 「私は、昭和七年九月、台湾南部の都市、台南市で生まれました。

 日本の台湾統治が始まって三十八年目の事でした。

 小鳥が生まれて初めて見たものをお母さんだと思うように、
 私も日本を母国と感じていました。

 ひと言で言うと、日本時代は、私にとってパラダイスでした。

 良い事だらけで、何から話してよいか分からない、
 と言っても信じて貰えるでしょうか。

 日本時代の台湾は、町全体が豊かで、
 特に台南はゆったりと時間が流れている様でした。

 よく町の孔子廟では、詩人や文人が詩を作って
 お互いに交換しあって楽しんでいました。
 
 非常に安定した社会で、隣近所とはお互いに信頼しあい、
 相互の信頼関係、人と人との絆が素晴らしかったのです。

 ですから、どこに行っても安心できました。
 枕を高くして寝る事が出来る世の中でした。

 一方、今はどうでしょう。

 外を歩いて何か話しかけて来る人があると、
 警戒心と不信感がまず頭をもたげてしまいます。

 また、現在の台湾の町並みを見てもらえば分りますが、
 どの家にも鉄格子が付けてあります。

 まるで、自分で造った牢屋に自分で住んでいるかの様です。

 私の家もマンションの玄関のドアが二重にしてあり、
 窓には鉄格子がしてあります。

 それでも、空き巣に綺麗に洗いざらい盗られたことがありました。

 鉄格子のない家で、戸締りをしなくても安心して眠る事ができた
 日本時代に戻りたいのです。

 道端で品物を拾っても、
 決して自分のものにする事のない時代にしたいのです。

 日本時代は、人民は政府を信頼していました。

 そして、それに応えるかの様に、
 政府も人民の生活を良くしてあげたいという
 気持ちを表していました。

 また、兵隊さんも、先生方も、お巡りさんも良くしてくれ、
 町中至る所にいい雰囲気が溢れていました。

 もしもタイムマシンで元に戻れるのなら、
 もう一度日本時代に戻りたいのです。

 あの平和で穏やかな時代に。」

    楊 素秋『日本人はとても素敵だった』桜の花出版p44)
               



台湾で、日本がしたこと ( 黄 文雄『台湾は日本人が作った』の抜粋)


 日清戦争に勝利した日本は、清朝の属国であった朝鮮を独立させ、
 台湾を譲り受けた。

「下関条約」(日清講和条約  1895年)により、日本は清朝より
次のような戦時賠償を獲得した。


参考  「日清講和条約」

大日本帝国全権 伊藤博文首相、陸奥宗光外相
大清帝国全権  李鴻章
明治28(1895)年4月17日 調印
明治28(1895)年4月20日 批准

第一条
 清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス因テ右独立自主ヲ損害スヘキ朝鮮国ヨリ清国ニ対スル貢献典礼等ハ将来全ク之ヲ廃止スヘシ
第二条
 清国ハ左記ノ土地ノ主権並ニ該地方ニ在ル城塁、兵器製造所及官有物ヲ永遠日本国ニ割与ス
 一
 左ノ経界内ニ在ル奉天省南部ノ地
鴨緑江口ヨリ該江ヲ溯リ安平河口ニ至リ該河口ヨリ鳳凰城、海城、営口ニ亘リ遼河口ニ至ル折線以南ノ地併セテ前記ノ各城市ヲ包含ス而シテ遼河ヲ以テ界トスル処ハ該河ノ中央ヲ以テ経界トスルコトト知ルヘシ
遼東湾東岸及黄海北岸ニ在テ奉天省ニ属スル諸島嶼
 二
 台湾全島及其ノ附属諸島嶼
 三
 澎湖列島即英国「グリーンウィチ」東経百十九度乃至百二十度及北緯二十三度乃至二十四度ノ間ニ在ル諸島嶼
第三条
 清国ハ軍費賠償金トシテ庫平銀二億両ヲ日本国ニ支払フヘキコトヲ約ス右金額ハ都合八回ニ分チ初回及次回ニハ毎回五千万両ヲ支払フヘシ而シテ初回ノ払込ハ本約批准交換後六箇月以内ニ次回ノ払込ハ本約批准交換後十二箇月以内ニ於テスヘシ
残リノ金額ハ六箇年賦ニ分チ其ノ第一次ハ本約批准交換後二箇年以内ニ其ノ第二次ハ本約批准交換後三箇年以内ニ其ノ第三次ハ本約批准交換後四箇年以内ニ其ノ第四次ハ本約批准交換後五箇年以内ニ其ノ第五次ハ本約批准交換後六箇年以内ニ其ノ第六次ハ本約批准交換後七箇年以内ニ支払フヘシ(下略)

(日本外交年表竝主要文書より)




 日清戦争後、下関講和条約締結の折、李鴻章(りこうしょう)は
 伊藤博文にこう警告した。

 『瘴癘(しょうれい)、アヘン、土匪(どひ)、生蕃(せいばん)は、
 「台湾四害」と言って絶対に根絶できない』


 瘴癘:風土病
 土匪:匪賊、山賊
 生番:統治に反抗的な原住民。
   帰順した原住民は熟蕃と呼ばれた。


日本は何をしたか?

@鉄道を作った

 「台湾鉄道の恩人、長谷川譲介」

 明治四十一年、とをむすぶ400キロの台湾縦貫鉄道完成させた。

 以来100年近くも台湾の人流と物流の大動脈となり、近代化に大きく貢献している。

 この鉄道は21世紀になった現在でも、変わらず走り続けている。

 臨時台湾鉄道敷設部技術師長・長谷川謹介は台湾鉄道の恩人と呼ばれる。

 (「台湾は日本が作った」p93)

 昭和19年(1944年)までに1、600キロが開通した

     (「日本の植民地の真実」黄文雄)

   蛇足:それと比較して、フィリピンの鉄道は、
      現在でも500キロに満たない。
      アメリカはその植民地時代フィリピンに何を残したのか?

A道路を作った

 ほとんど道らしい道がなかった台湾では、
 移動には陸路より船のほうがはるかに早かった。

 日本統治が始まると、あっという間に20000キロの道を作り
 200以上の河川に3000以上の橋をかけた。
 
 清朝時代、高雄から台南へ行くのに(約40キロ)2日掛かったが、
 日本が道路を作ってからは自転車に乗って2時間で行けるようになった。

 (黄 文雄『台湾は日本人が作った』p101)


B毒水を飲み水に変えた上下水道整備

 上下水道を作り、伝染病を予防し、飲み水を完備した。

 台湾の水は毒水であったが、上下水道の普及でさまざまな疾病が激減した。

 1714年、ヤソ会の伝道師マラが地図作成のために台湾に来た。

 彼らが連れてきた屈強のボディーガードは台湾の水が毒水であると言う事を信用しなかった。

 そして煮沸した水を飲む代わりに泉の水を飲み、五日間で皆死んでしまった。
 
ボルトンと浜野与四郎

 台湾総督府は、お雇い外国人のイギリス人ボルトンと
 その弟子・浜野与四郎に上下水道工事を命じた。

 ボルトンは基隆の水道工事を完成させた後、マラリアに掛かり死亡。

 後を継いだ浜野与四郎は23年かけて、
 台湾の主要都市の上下水道の工事をほとんど完成させる。

 台北の都市下水道建設は、明治29年から始まり、
 鉄筋コンクリートの上下水道系統は、東京や名古屋よりも早く建設されている

     (黄文雄 「台湾は日本人が作った」p106)
  

C都市計画に基づき近代都市を造った

 今に残る近代都市をつくりあげた森山松之介、堀見末子、木村泰治

 日本領台前は、台湾に近代都市は存在していなかった。

 台北城、台南城など城はあっても、人と家畜が同居し、
 上下水道も電気も道路らしいものもなかった。

 住宅建築は、廟寺、政府官庁、豪商富豪のレンガづくり以外、
 民家はほとんどが土塊づくりの萱葺きで何北首府の台南、台北とも村落同然だった。
 
 台湾の近代都市計画事業は、日本領台後すぐに、始まった。
 台北市の下水溝の排水工事から始まり、
 衛生上の見地から、市区改正を企画した。

 日本時代に建てられた、東京駅に似ている台湾総督府は
 台湾建築のシンボルとなっている。

 森山松之助は、総督府をはじめ台北市に残る
 巨大な古風建築の多くを建築した。

 堀見末子(男性)は台湾へ渡り、
 総督府の技師として活躍することになる。

 以来、鉄橋・護岸工事・発電所・道改修計画・都市計画・井戸掘削工事など、
 多くのインフラ建設に 携わった。

 木村泰治は、「台湾日日新報」の記者となり、新聞社を退職してからは
 台湾土地建物社長となり、 台北、基隆に多くの建物を建てている。


 
Dダム・灌漑を作り、荒蕪の地を肥沃な穀倉地帯に変えた
 
 ダムを作り、不毛の地、嘉南平野を肥沃な穀物地帯に変えた。
 「東洋一の烏山頭(うざんどう)ダム」

 台湾南西部、嘉南(かなん)平野(嘉義市と台南市の間)は、
 雨季には沼地になり、乾季には旱魃(かんばつ)となる不毛の土地であった。

 弱冠28歳の台湾総督府土木局技師・八田与一は、
 大正3年から昭和5年まで、26年の歳月を掛けて、
 嘉南平野を流れる官田渓の上流に、長さ1,300メートル、
 底部幅30メートル、頭頂幅9メートル、高さ56メートル、東洋一のダムを完成させる。

 烏山頭ダムが作った珊瑚潭(さんごたん)の貯水量は1億500万トン。

 このダム下流の灌漑用水路、
「嘉南大
土川(土偏に川と書きしゅうと読む」かなんたいしゅう)の水路は、
 その長さは1万6000キロ、万里の長城の6倍を越え、
 不毛の平地を一大穀倉地帯に変えた。

    (灌漑面積は香川県とほぼ同じ)

 ダムが完成した時にはアメリカの土木学会でも「八田ダム」と命名され、
 世界をあっと言わせた。

 日本の技術の高さを世界に誇る事業であった。

 極貧に喘いでいた嘉南の農民たちは、
 烏山頭ダムのお陰で、夕食に肉を食べられるまでになった。

 地元民は、八田与一の功績を讃え銅像を建てている。

 八田与一は、昭和17年5月5日、日本政府からフィリピン綿作灌漑の視察を命ぜられ、
 広島県宇品港から大洋丸に乗り込み南へ向かった。

 しかし、五島列島の南を航行中、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃に遭い、撃沈される。

 享年56歳。

 彼の妻、八田外代樹(とよき)は、日本の敗戦が決まると、
 夫を追って烏山頭ダムの放水路に身を投げ、45歳の命を閉じた。

    (黄文雄 「台湾は日本人が作った」p114)


 終戦後、日本人が台湾から引き上げてしまった

 昭和21年12月15日に八田夫婦のために、
 日本式の御影石の墓が地元嘉南農田水利会の手で立てられた。


  余禄:八田与一の先生・古市教授の逸話

  「八田与一が明治40年(1907)に東大の土木学科に入学した時は、
   フランス留学中だった古市教授がいて、すでに五十代になっていた。

  滞仏中、刻苦勉励している古市に下宿の女主人が同情し、
  少し休んだらどうか、と言うと、古市が、『自分が一時間休めば、
  日本が一時間遅れる』と言った。』
   
   パリ時代の古市のノートは同大学土木工学科『古市文庫』に保管されていて、
   東大名誉教授高橋裕氏の『現代日本土木史』(彰国社)によると
   『それらは克明を極め、正確にして緻密』なものだそうである。」


  (司馬遼太郎『台湾紀行』p298)


E水力発電所を作り、工業化の基礎を作った

 日月潭水力発電所が無かったら、台湾は農業国に止まっていただろう

 「山形要介と国弘長重」

 大正7年、台湾総督府土木課長・山形要介と技師・国弘長重は、
 第七代総督・明石元二郎の命により日月潭水力発電所の建設に着手し、
 16年の歳月を掛け、昭和9年に完成。

 完成前の台湾の総発電量は7万キロワットに過ぎなかったが、
 完成後は35万キロワットに増加し、
 台湾の電力供給の主流となり、工業化の基礎を築く。

 電力量は最盛期の昭和18年には120万キロワットまで増加した。

 「台湾と中国の電力使用量の比較」

 終戦当時、台湾と中国との電力使用量を比べれば、
 台湾人一人当たりの平均電力使用量は、中国の233倍であった。
 この数字だけを見ても、台湾と中国の近代化レベルの差の一端が伺えるだろう。

 ここで、特に附言したいのは、中国大陸の電力施設は
 ほとんど日本と欧米が中国に残した遺産である。

 中国人と電力・動力源の開発とはまったく無縁のものであったと言えるのだ。

    (黄 文雄『台湾は日本人が作った』p117)


  今までの西欧の植民地経営は、
  ほとんど植民地の農林工業と言った安価な一次産品を収奪ながら、
  高価な工業製品を売りつけることによって、本国の高度な工業力を支えてきた。

  しかし、日本の台湾植民地は総督府の設置と共に、すぐ殖産興業に疾走した。

  植民地を工業化、産業化社会として育て上げようと云う考え方は、
  西欧植民地思想としてはありえないことであった。


      ( 黄 文雄『大東亜共栄圏』p167)

  昭和20年3月22日に日本衆議院選挙法の台湾施行、
  翌日貴族院会の改正となった。

  従来一名だった貴族院に、台湾から3名、
  朝鮮から7名の貴族院議員の議席を持つ事になった。

   領地や属領の原住民から本国国会に国会議員を出す事は
  民主主義の生まれた西欧社会でさえなかった事であり、
  世界史的にも壮挙であると言えよう。


   ( 黄 文雄『大東亜共栄圏』p168)



F基隆(キールン)港を造り、高雄(たかお)港を造り、国際貿易の拠点とした

 「川上浩二郎」

 基隆(きーるん)港高雄(たかお)港局基隆出張所長・川上浩二郎は、
 明治32年から昭和8年まで基隆港の築港工事を行い、
 それまで干潮時には港の半分が露出し、
 満潮時でも1000トン以上の船が入港できなかった基隆港を
 6000トンの船が停泊できる国際貿易港に変える。

 基隆港よりやや遅れて、打狗(高雄)港の築港も進められ、
 戦前台湾の二大国際貿易港として、台湾南北の海外への門戸となり、
 戦後、台湾経済の急成長と共に、高雄港は一躍世界的港となっている。

    ( 黄 文雄『大東亜共栄圏』p122)

G医学校を作り、医学教育の推進

 山口秀高・医学校の基礎を築いた台湾総督府医学校初代校長。

 高木友枝・「台湾医学衛生の父」台湾総督府医学校二代目校長。

 堀内次雄・半世紀を台湾医学教育に捧げた台湾総督府医学校三代目校長

 日本は台湾人の子弟に対する医学教育にも大きな功績を残し、
 ことに医学校の発展はこの100年来、
 台湾を世界最大の医者の産地として世に知らしめた。

 日本は、日清戦争後即ち台湾割譲後すぐに、台北病院(大日本台湾病院)を設立、
 4年後明治32年(1899)に早くも台湾総督府医学校と師範学校を建てる

 「人命を救った日本人、虐殺し尽くした中国人」

 終戦後、台湾から日本人が去り、代わって蒋介石率いる国民党が大陸から逃げてきた。

 そして蒋介石の統治が始まって間もなく、昭和22年、いわゆる「2.28事件」が勃発する。

 国民党軍によって、手当たり次第に台湾人が虐殺された。

 台湾史上もっとも残虐な事件の一つである。

 事件発生前から、台湾人は中国人管理の汚職や収奪には辟易していたため、
 事件が台湾人の反中国人意識に火をつけた。

 そして、事態は台湾人と中国人の民族的対立へと発展し、
 その鎮圧を目的とした国民党軍の攻撃は、より過激に、より熾烈に
 各界の台湾人指導者の大量虐殺へとエスカレートしていった。

 大正、昭和以来、日本人と台湾人の協力の下に育てられてきた台湾人エリートたちは、
 こうしてほとんどが露と消えていってしまった(白色テロ)。

 虐殺された台湾人エリートは、3万人とも5万人とも推測され、
 彼らは現在でも行方不明のままである。

なかでも医者であるが故の犠牲者は多かった。

   (黄 文雄『大東亜共栄圏』p176)


H瘴癘(しょうれい)(風土病)の島を衛生的な島に変えた

 瘴癘の島、台湾

 日本領台前の台湾では、ペスト、腸チフス、赤痢、コレラ、
 天然痘、流行性脳脊髄膜炎、マラリア、恙虫病、などの
 急性伝染病のほかに、さまざまな寄生虫病、蛇毒、結核、梅毒、精神病などが蔓延し、
 皮膚病や甲状腺腫などが各地に見られた。


 「統治直後の病院設立」

 日本政府は、日清戦争後、下関条約により台湾割譲が決まり、
 正式に日本統治が始まった明治二十八年6月17日の「始政式」の2日後には
 「衛生委員会」を組織。

 翌日には、台北の大稲?千秋街に
 「大日本台湾病院」を設立といった具合に、迅速に事を運んだ。



 「後藤新平」

 特に児玉源太郎総督時代の民政長官であった後藤新平は、
 台湾経営政策の中でも特に衛生を重視した施策を行った。

 当時、第一線で直接住民の診療に当たる医師ははなはだ少なかったので、
 医学校を創設し 近代医学の教育を台湾人に施し、
 医師として民衆の衛生指導と医療行為のできる人材を
 育成する準備を進め、同時に、即戦力として役立つ人材を
 日本から調達するために公医制度を設け、
 日本国内から多くの医者を招聘した。

 また後藤新平は、医療改革の断行を推進し、
 淡水、基隆、新竹、宣欄、鹿港、苗栗、雲林、哺里、嘉義、
 台南、打狗(高雄)、鳳山、澎湖に次ぎ次に医院を、恒春、台東に診療所を設けた。




{「大清掃法」の施行}

 明治38年11月、台湾総督府は衛生環境の改善を徹底するために、
 訓令第234号「大清潔法施行規則」を交付し、
 春三月と秋九月の二季には、全台湾で定期的に大掃除を行う事を決定。

 これにより、巡査は常に各家庭が清潔に保たれているかを抜き打ち検査するようにし
 衛生環境改善の為になみなみならぬ努力をした。


病院数の飛躍的増加

 明治30年の病院数 29箇所
 昭和9年     217箇所


 平均死亡率の著しい低下

 明治38年      人口1000人のうち     341人
 明治45年      人口1000人のうち      25人
 大正15年      人口1000人のうち      20人以下


平均寿命の倍増

 明治28年       30歳
 終戦当時       60歳




 「退治に燃えた日本人医師」


ペスト

 緒方正規・山極勝三郎

 ペストは多くの場合ネズミを媒介にして伝染するため、 総督府はネズミ退治を急務とした。
 ネズミ退治の統計数字では、 明治41年から大正13年までの間に、 5400万匹のネズミを捕まえ ている。


 台湾総督府の要請を受けた東京帝国大学の病理学者緒方正規教授や山極勝三郎教授らは、
 台湾のペストを調査するために明治29年末に台湾へやって来た。

 そしてかれたの努力にとってペストが下火になり、ようやく撲滅されたのは
 大正6年ごろであった。


腸チフス

 堀口次雄・黒川義雄

 明治36年、堀口次雄は台湾で始めた腸チフスB菌の検出に成功。

 4年後に黒川義雄が副腸チフスA菌を検出すると言う偉業を達成する。

マラリア

木下嘉七郎・羽島重郎・小泉舟・森下薫・小田定文・菅原初男・
並河注・石浜兵

 台湾での最大の死亡原因はマラリアであった。

 日本の台湾出兵当初は、日本軍もマラリアにはなす術もなく、病死者を多く出した。

 たとえば、大正4年の台湾の人口は330万人で、
 マラリアによる死亡者は1万3,350人であった。

 マラリアが蚊によって伝染する事が発見されたのは、
 明治30年の事で、イギリス人駐インド軍医であり、
 熱帯病研究者でもあったサー・ロナルド・ロスが発見、
 彼はこの発見でノーベル賞を受ける。

 その2年後、マラリア家の研究を進めていた木下嘉七郎は
 台湾で最初にマラリア蚊の存在を発表、
 台湾マラリアについて多大の貢献をしたが、
 36歳の若さで亡くなっている。

 羽島重郎は台北地区でマラリア蚊の研究調査を行い、
 マラリア蚊の新種を発見、「台湾マラリア蚊」 と命名。

 小泉舟も台湾のマラリア蚊を研究し、隆盛期が5月と10月で、
 衰退期が3月と8月である事を指摘、
 マラリアは感染した体内に約2週間潜伏し、
 感染者は1,2ヶ月以内には死亡する事を発見。

 小泉の助手であった森下薫(後の台北帝大医学部衛生学教授)は、
 台湾をあまねく走破してマラリア蚊の分布と脾臓腫との関係を調査した。

 これらの研究者の功績を受けて、昭和4年(1929)4月、中央研究所は「マラリア治療実験所」を設  立。

 そこで小田定文・菅原初男・並河注・石浜兵らが、
 台湾の風土病撲滅のため心血を注いで貢献した。

 こうして日本人医師の努力によりマラリアが絶滅、さまざまなも次々に退治され、台湾は清潔で住み やすい島へと変わって行った。

   (黄 文雄『大東亜共栄圏』p151)

 

  
  「町全体が清潔でした」 楊 素秋(一台湾女性の思い出)

 「日本時代の日常」

 日本時代の大きな特徴は、町が清潔だった事です。
 私たちも、また政府も街を綺麗にする努力をしていました。

 朝起きて戸をあけ、まず掃除。外を掃くのに、
 自分の庭だけでなく、
 隣がまだ起きていなかったら隣の分も掃いてあげます。
 すると隣の人は翌日はもっと早く起きて掃いてくれるのです。

 各家の前には木で作った蓋付きのゴミ箱があって、
 ハエ除けの為にタールで黒く塗ってありました。

 朝、まだ暗いうちに、カランコロンと言う音がするのですが、
 それはゴミ取り屋さんの木製の車の音でした。

 ゴミ箱からゴミをかき出してくれるのです。

 当時は、土日の休みもなく、毎朝来てくれました。

 それから、道路わきの側溝を掃除するおじさんが来ました。
 だから側溝はいつも綺麗でした。

 物が溜まっていたり、
 腐って悪臭がするようなことはありませんでした。

 側溝に蓋はなく、家の前の渡る所だけで橋渡しをしていました。

 散水車や、往来を綺麗にする除草の車も時々来ていました。

 町を綺麗にするためのこういう作業員は、政府が雇っていました。

 それだけ国が衛生に力を入れていたのです。

 ですから、町全体が清潔でした。

 今みたいにゴミだらけではなく、タバコの吸殻をポイッと投げ捨てする事もありませんでした。

  (楊素秋「日本人はとても素敵だった」p63)
 

I支那伝統のアヘン吸引を撲滅した

 「台湾のアヘンと根絶した民政長官・後藤新平」 

 支那伝統のアヘン吸引を撲滅

 医者としてすでに台湾アヘン問題の深刻さを知っていた後藤新平は、
 日本内務省衛生局長の時代から台湾総督府民政局に綿密な調査を指示していた。

 その調査結果を基に『アヘン事項調査』を完成。

 これは、「台湾アヘン問題の百科辞書」と言われるほど
 詳しい調査研究分析報告書であった。

 第四代台湾総督・児玉源太郎の下、
 内務省衛生局長になった後藤新平は
 綿密なアヘン問題の研究調査から、
 全面禁止は不可能だと知った。

 強引な厳禁策をとれば、
 吸引者たちの激しい抵抗を受けるのは必死だと言う事も判った。

 もしも、暴動などが起こったら、
 少なくとも二個師団の兵力が無ければ鎮圧は出来ないだろう。
 仮に全兵力を持って鎮圧しようとしても、禁絶は不可能と思われた。

 そこで後藤新平が考えたことは
、アヘン中毒根絶に50年を目途にした長期計画「策」であり、
 アヘンを国家の専売制にして管理するという「条件付アヘン吸引」によって、
 じょじょに吸引者を減らしていくと云うものだった。

 公営によるアヘン製造工場を作り、専売制を取り、その収益は、
 台湾の衛生事業施設の主要経費に当てるという一石二鳥の策である。

 漸禁策は見事に的中する。

 実際約17万人いた吸引者は、昭和10年ごろは約1万6000人と、、
 十分の一に激減している。

 そして昭和14年には500人を割るほどの成果を得た。

 大正12年には、
 海関税務司のアグレンが台湾のアヘン制度に学ぶべきだと
 万国禁煙会議で提案し、
 翌年5月3日の上海英字新聞「宇西西報」では
 台湾アヘン政策の成功を絶賛した。

 「アヘン漸禁策」を知った清国の実力者であったとらは、
 明治43年に台湾の制度を真似して奏文で専売法を施行、
 漸禁策を主張した。
しかし、中国ではアヘン断禁政策は失敗し、
逆に吸引者が激増してしまった。
 (黄 文雄『台湾は日本人が作った』p155)
 

J原住民の開化に努めた

 「原住民の開化に努めた日本人・佐久間佐馬太・第五代台湾総督」

  十七世紀中庸の時代から、十九世紀末に
  台湾が日本に永久割譲されるまでの清国時代は、
  約240年間にわたる漢族移民による原住民の土地略奪、
  原住民虐殺の歴史であり、反乱と虐殺が間断なく続いた。
  
  清国時代の漢人の『』や『』(原住民の統治政策)は
  原住民に対する迫害と虐殺であった。
  それに対する原住民の反抗・逆襲がいわゆる『蕃乱』で、
  『出草』(首刈り)による『蕃害』であった。

 300年近く台湾を支配していた漢人たちも、
 台湾の西海岸の平野しか支配できず、
 そのため日本の領台以前は、
 台湾の三分の二はまだ原住民の土地であった。

 台湾原住民の天敵は、いつの時代でも漢人であった。
 日本領台時代になって彼らはやっと解放されたのである。
   (黄 文雄『台湾は日本人が作った』p180)


「法治社会の確立」
  漢族間の「」(集団的殺し合い)も、
 「漢」「蕃」両種族の数百年に及ぶ血みどろの死闘も、
 日本領台期の法治社会確立によって解消され、
 歓迎すべき歴史的変化と共生共存が実現したのである。
  
 台湾の「」政策に最も打ち込んだのは、
 第五代総督の佐久間佐間太であった。
 
 当時、すでに70歳を超えていた佐久間総督は、
 陸軍大将でもあったが総指揮者として陣頭に立ち、
 山に入り、陣頭指揮をするなどというのは、
 実に前代未聞の事であり、
 その意気込みと『理蕃』に対する決意が伺われる。
 しかも、わざわざ退役を延ばしてまでの出陣だった。

 原住民を日本観光旅行に連れて行くことも、
 台湾総督府の『理蕃』政策の一つであった。
 台湾施政二年目の明治30年、高砂族の日本内地観光が実施された。

 台湾総督代理の立見軍務局参謀長は、
 出発に際して次のような訓辞を述べた。

 『日本人も往時は戦いに望み、
 首級をたくさんとる事を手柄とした時もあるが、
 これを改め刻苦勉励し、今日の繁栄を見た。
 汝らも内地同様になるように努力して欲しい』

  (黄 文雄『台湾は日本人が作った』p190)


 「高砂義勇隊」
  
  『高砂義勇隊』の勇猛と功績は、多くの日本国民に感動を与えた。

 中でも、最後まで勇敢に戦ったのは、
 日本軍の山岳民族討伐戦争の際に最後まで抵抗したタロコであった。

 そのタロコ蕃が日本軍に帰順して、
 いざ日本兵士として戦うとなったら、目覚しい活躍を果たした。
 最後まで最も忠実に日本軍と共に大東亜戦争を戦い抜いたのは、
 高砂義勇隊であった。
 高砂族と日本人の間に『武士道精神』が通じていたとしか思えない事
 である。
 逸話も多く残されている。
 
たとえば、激戦中に切込み隊となって忠義を尽くし、
抜群の功績を挙げたことから金鵄勲章を授けられた者もいた。

また、弾薬や食料を背負って戦地に届けようとして
疲労困憊しても、背中の食料には一切手をつけず、
米袋を背負ったまま餓死した者もいた。

 大戦中に、日本人の駐在警察官を慕っていたからと言う理由で
 志願し、志願兵として南方戦線に散った義勇兵は実に多かった。

 生還者や遺族は今でも日本のために勇戦した事を誇りにしており、
 親日感情も強い。 

 彼らの記念碑は、現在、台北市の郊外、
 烏来の滝の向こうにある山上に立てられ、
 李登輝前総統の題詞が添えられ、
 その前には日本の国旗も翻っている。

   (黄 文雄『台湾は日本人が作った』p192)

K米の品種改良「米」で台湾の深刻な食糧不足を救った

 「農地拡大、収穫量増大」

  台湾総督府が行った品種の改良、施肥の改良、灌漑の完備、
  土地の改良などにより、台湾の米収穫量は年々増加していった。

  日本領台当時の台湾の米作付け面積は、約20万甲、収穫量150万石
  明治32年(1899年)       約36万甲、収穫量250万石
  昭和9年              約70万甲、収穫量900万石

 食糧不足の台湾が、日本人時代に入ってあっという間に米生産四倍増と言う奇跡を成し遂げた 

  
      (黄 文雄『台湾は日本人が作った』p207)   
  

  {「台湾蓬莱米」の父磯 永吉と助手末永仁」}

 農業技官・磯は助手・末永と共に台湾で
 40年以上農業改革と米の品種改良に努め、
 明治44年から10年掛けて米の品種改良して、
 大正10年「蓬莱米」を完成させる。

 「末永はこの地で不眠不休で働き、
  米の品種改良実験を繰り返し行った。

 末永の一日は、明け方に官舎から出て1.5キロの道を歩き
 試験田に向かう事から始まる。

 昼は新妻のクニから弁当が届く。
 日が暮れるまで試験田に入り浸り、
 帰宅して夕食をとった後も机上で研究に没頭するか、
 あるいは3キロ離れた磯の官舎へ自転車で行き、
 状況報告をすると同時に指導を受けた」

 こうして末松の一日はあっという間に終わるのだが、
 彼はこの生活を実に10年も続けていたのである。

 そして、ついに大正10年(1921年)、
 「台中六十五号」の完成を見る。

 その間、実験に使った品種は1,000余種、
 200数十種を改良して出来たのが、
 試験田第六十五番目の畝で育成した品種であった。
 喜びはどれ程のものであったろうか   

 「台中六十五号」は、台湾の古称「蓬莱仙島」から
 『蓬莱米』と名付けられた。

 (黄 文雄『台湾は日本人が作った』p208)   

L砂糖を台湾最大の輸出品にした

   「飛躍的な生産を可能にした新渡戸稲造」

 優秀な人材なら誰でも欲しいと思っていた後藤新平は、
 同じ岩手県出身というよしみもあり、
 新渡戸を児玉台湾総督に推挙し、
 半ば強引に彼を台湾総督府技師として迎え入れた。

 技師と言う役職は、
 官になるのを嫌がった新渡戸の希望だとも言われている。
 それが明治3年、彼が39歳の時の事である。

 台湾へ渡った新渡戸は、半年かけて全島を巡り、
 殖産興業の要は製糖業にあると確信した。

 調査の後、パリで開かれた万国博覧会へ出かけたのを機に、
 欧米諸国及び,その他の植民地の製糖設備を調査して歩いた。
 帰途はエジプトとジャワへ寄り、
製糖業経営の実地視察、殖産局長心得を学んで帰ってきた。
  
 製糖政策の具体策を盛り込んだサトウキビの品種改良、
 栽培法、製造法などの意見書「糖業改良意見書」を
 児玉総督と後藤新平に提出した。

 台湾糖業の発展は新渡戸の改善策により、
 品種改良開始から11年目には砂糖生産量が6倍になった
 と言うから、彼の貢献度が相当なものだった事が判る。

 その後の技術向上により、
 日本領台前には年間5万トンだったが
 昭和11年から翌年の最盛期には、年産100万トンを越えた。
   

    

   

   
M台湾の教育に命をかけた

 「井沢修二と先生の精神」

初期の台湾に於いて、教育に大きく貢献したのが伊藤修二である。

伊藤は、わずか29歳の若さで東京師範学校の校長に就任し、
東京音楽学校初代校長を務めたほどの人物である。

台湾が日本の領土になって早々、
伊沢は自ら進んで台湾の初代学務部長として赴任。

日本全国から募った七人の優秀な教師も伊沢に同行した。

 彼らは、皆一様に新天地台湾での教育に燃えていた。

 一行は、台北北部のに学校を建て、早速学童を募集した。

 最初に集まったのはたったの六名だったが、

 日本の教師たちは生徒と寝食を共にし、
 日本語だけでなく日常の立ち居振る舞いや心構えを
 身をもって教えたと言う。

 当時はまだ各地で土匪の反乱が起き、治安は不安定だった。
 にもかかわらず、一行は、寸鉄(小刀)も帯びずに
 住民の中に入らなければ真の教育は出来ないとして、
 命がけで台湾人教育に励んだのである。
 もし国難に順ずる事があれば、
 そのときこそ生徒に『日本精神』を示せると考えていた。

 明治二十九年元旦、伊沢と教師の一人が留守の時、
 とうとう事件が発生した。
土 匪約百人が学校を襲撃したのである。
この襲撃は事前に察知されていたが、
常日頃大義の大事さを説いていた教師たちは、
逃げることなど微塵も考えてはいかったのである。

教師たちは全く怯む事なく、堂々と土匪たちを諭した。
しかし、最初から聞く耳を持たない土匪たちに多勢に無勢で、
六人全員が殺されてしまったのであった。

この芝巌山事件の後も、危険を承知の上で、
多くの日本人教師が台湾人の教育を自分の使命として、
台湾にやって来たのであった。

事件後、芝巌山には神社が立てられ、
殉死した六人の先生が祭られた。
さらに、大正六年(1917)伊沢が亡くなると、
伊沢の遺言によって遺髪が『先生之墓』に合祀された。

こうして伊沢と六人の先生の遺志は
『精神』として台湾の教育者たちに受け継がれている。


先生

 道明  山口県出身 (39歳)
関口長太郎  愛知県出身 (38歳)
桂 金太郎  群馬県出身 (28歳)
中島 長吉  東京府出身 (26歳)
井原 順之  山口県出身 (25歳)
平井 数馬  熊本県出身 (19歳)


道明  

 『我々は平常、生徒に向かって大義名分をよく教訓して良民にしようと言うのに、
今匪賊が来たからと言って逃げるとは何事ぞ、止まって彼らを説得するのが当然である。
我等は国家の為には生命も惜しまぬという事は常に言うて居る。
それに、我らが逃げたとなったら教育者の本分が立たぬ』

日本に次ぐ高い就学率

日本時代の50年間、台湾人の公学校(小学校)就学率は
昭和18年に71.3%、日本語普及率は57%にも達した。
これは、アジア諸国の中では日本に次ぐ高い就学率として、
近代化の基礎の一つを築いたと言える。
 
  台湾では少なくとも四つの違う言葉が使われており、
  全ての人が共通に話せる言葉はなかった。
  だから日本時代に日本語教育を受け、
  初めて誰にでも通じる言葉が出来た。
  しかも、日本語は通じるだけではなく、
  文明開化の言葉でもあったから、
  台湾人は日本語を通じて近代文明に触れる事が出来たのである。

    (岡田英弘『この厄介な国、中国』p246)
 

N帝国大学を作った
 
台北帝大は大阪帝大より先にできた

台北帝国大学は、昭和3年(1928)に設立された。
大阪帝大は、その3年後の昭和6年である。
名古屋帝大に至っては、昭和14年設立であった。

生徒より教授の数の方が多かった

戦前の台湾には四つの専門学校があり、
教師は185名、生徒は841名であった。
台北帝大などは、教師348名、生徒283名であり、
学生よりも教師の数が多く、
レベルの高い行き届いた教育がなされていたのである。
 (黄文雄「台湾は日本人がつくった」p10)


  欧米植民地との比較

当時の日本人と台湾人と朝鮮人は、
ほとんど平等の立場にありました。
朝鮮人にも台湾人にも、役人なら高等官、軍人なら将校がいて、
日本人の部下を持っていました。
また、自治体の首長もいましたし、国会議員もいました。
台湾人には貴族院議員が、朝鮮人は貴族院議員だけではなく
東京都選出の衆議院議員もいて、
中央政界で日本帝国の国策決定に関与していました。
それに朝鮮王族は日本皇室の一員となっていたので、
朝鮮人には皇族までいました。(中略)
 一方、欧米諸国のアジア植民地支配では、
 その支配の構造には越えられない壁がありました。
 インド人やマレー人が英国人の部下を持ったり、
 インドネシア人がオランダ人の部下を持つ事は
 在り得ないことでした。
 (『台湾と日本がアジアを救う』明成社p42)

O木を植え、治山治水で、台湾の自然を濫伐から救った

 日本人が木を植える民であるなら、支那人は木を刈る民である。

支那人が入ったところは、森林が消え山が禿げ、
洪水と旱魃が拡大再生産されるが、
これが中国の文化であるということは
中華5000年の歴史が余すところ無く教えている。

 日本領台以前は、燃料は木炭に頼っていたので、
 漢人たちによって平野の森林は全て無くなっていた。

治山治水が始まったのは日本時代に入ってからで、
平野が河川による氾濫から解放されたのも、それからである。

 台湾総督府は、明治39年から、
 保安林確保のために造林業を奨励し、
 毎年100万本の苗木を無償配布した上に保証金を交付して
 造林に勤めた。

 (『台湾と日本がアジアを救う』明成社p270)

P日本人警察官は神として祀られた

 「神として祀られる日本人警察官」

  終戦直前、台湾人の国政参加が実現した。

  イギリスは、香港に於いて、
  返還の3年前まで香港の住民には一切の行政には参加させなかった。

    (岡田英弘『この厄介な国、中国』p248)

  「戦後の台湾はどうなったのか」

アメリカは、日本に原爆を落とし、台湾に蒋介石を落とした。

  「日本統治の終焉で『社会』に戻った台湾」

 大正9年ごろには台湾は治安が安定し
 抗日運動はそれまでの武力によるものから政治運動に変わり、
 島内全域は夜でも施錠しないで済むほど安全になった。

 かつての匪賊社会とは全く別世界が出現したのである。

 ところが現在の台湾は、常に人を警戒し、
 泥棒の侵入に備えなければならないという社会になってしまったのである。

 戦後、国民党と共に中国人難民がどっと流れ込んで来たためである。

 かれらは勝手に他人の土地に小屋を建てて、
 店の前に露天を作り、暇さえあれば物を奪う人々だった。

 かくして日本時代とは打って変わり、人に接する際には他人をまず疑い、
 腹の探り合いをするようになった。

 今日台湾へ行けば、どこの家も、たとえどこかのビルの高層階でも、
 窓という窓には鉄格子が嵌められている事に気付くだろう。

 実に異様な風景である。
 
 ここで再び強調しなければならないのは、台湾の不幸は日本に占領された事ではなく、
 昭和二十年(1945)以降、中華民国政府に依って40年以上に亘って、
 法治とは程遠い独裁政治を受けた事である。

 かつて李登輝総統は、台湾を『夜、安心して眠れる国』にしたいと語った事があるが、
 日本時代には、それが現実していたのである。

 日本の警察によって台湾の自治は実に見事に保たれていた事は
 台湾の高齢者にとっては忘れがたい思い出になっている。

 彼らに当時の状況を聞くと、
 よく『夜不閉戸』(夜も戸締りをしない)と語る。

 治安の悪化が深刻化する今日、
 戦後世代の間でもこの言葉は驚きをもって受け止められ、
 それが社会の激変を物語っている。

 (黄文雄『日本の植民地の真実』p143)

   「2.28事件と戒厳令」

  国軍を出迎えに

 中学校二年生のとき、中国から蒋介石の国軍(国府軍、国民党軍)が
 来るというので、
 早速歓迎のための中国語の歌を無理やり練習させられました。
 しかし、先生も生徒も中国語が全然分らないので、
 どんな意味の歌を歌っているのか、
 ちんぷんかんぷんで全く分りませんでした。

 国軍歓迎の式典の日、朝八時に駅に集合といわれて行きました。
 しかし、国軍はいつまでたっても来ませんでした。
 それで、午後一時に来るから十時に再集合と言う事になりました。
 ところが、十時になってみたのですがまだ来ません。
 そこで昼食を食べに戻ってまた三時に行きましたが、
 全然来る様子がありません。
 さらに待つこと二時間、
 結局来た時には時計の針は五時を指していました。

 日本時代は、時間厳守は誰に習ったわけでもなく
 社会全体の雰囲気でした。
 その当たり前の生活習慣になれていた私たちにとって
 これが初めての『中国時間』の洗礼でした。(中略)

 (支那兵を)本当に見た途端に、もうがっくりしました。
 これはひどい!と思ったのです。
 出迎えに来ていたみな『うわ!』と言ったのです。
 恐ろしい光景に見えました。

 それまで日本兵しか見たことのなかった私は、
 兵隊と言うものは銃を担いでゲートルを巻いて
 ピシッとしているものだと思っていました。
 それが、支那兵は裸足でぼろぼろの服を着て、
 天秤棒に泥靴と鍋と七輪をぶら下げて、
 こうもり傘を担いでだらだらと歩いていました。

 私は呆れ果ててものが言えませんでした。まるで乞食の行列でした。
  (楊 素秋『日本人はとても素敵だった』p174)

 蒋介石の国民党は、進駐してくるなり、
 その日から北京語の使用を命じ、日本語の使用を禁止した。
 過程では、小学校で台湾訛りの北京語で教育を受けている子供たちと
 両親の間で、会話が成り立たなくなると言う事態が起こった。

「2.28事件(昭和22年・民国36年2月28日)

 事件の発端は、台北で起こった密売タバコの取り締まり事件でした。
 当時の台湾では、煙草は専売制で、
 中華民国政府の専売局以外では販売する事は出来ませんでした。

 二月二十七日、専売局の役人たちが、煙草を売っている婦人から、
 煙草を没収したばかりではなく、
 理不尽にも彼女を銃で激しく殴打しました。

 近くにいた台湾人たちは、
 この役人を取り囲み激しく抗議しましたが、
 役人たちは民衆に発砲し、一人を殺して逃げました。

 このため、翌日二十八日には多くの台湾民衆が、
 専売局へ押しかけました。抗議は激しいものでしたが、
 台湾人側は身に寸鉄も帯びていませんでした。

 即ち、武器をもっておらず、暴動を起こす気持ちなど毛頭なく、
 あくまで抗議の意思を表すために集まったのでした。

 これに対し、中華民国の憲兵隊は専売局の屋上に機関銃を据付け、
 台湾民衆に無差別に銃撃を加えてきたのです。

 一瞬にして多くの台湾人が殺されました。

 二二八事件の勃発です。

 事件はたちまち台北市中に広がり、至るところで、
 大陸から来た国民党側の中国人と、台湾人の戦いが始まりました。

 だんだん中部に事件が拡大して、南部の嘉義、台南、
 そして高雄に来たのが、三月六日です。

 その日午後二時ごろ、高雄市長と黄仲圖(こうちゅうず)議長と五人の台湾側代表が、
 国民党側の高雄要塞司令官中将と談判するために
 要塞司令部へと向かいました。

 『各地で争いが起こっていますが、平和解決で行きましょう』
 と言うのがその趣旨でした。

 私の父は、市参議員(市会議員)でしたから、
 市役所で市長たちが帰るのを待っていました。

 私は当時高雄市立病院の主任医師をしておりましたから、
 呼ばれて救護隊として、高雄市役所で待機し、
 たまたま親子で同じ場所にいました。

 ところが、司令官と交渉に行った市長たちが、
 なかなか帰ってきませんでした。

 ただ、黙って待つうちに時間は過ぎ、
 やがて午後二時を廻った頃のことです。

 高雄市役所は、何の前触れもなく、突然攻撃を受けたのでした。

 駄々駄々脱兎機関銃の音が外で聞こえました。

 要塞司令官は、平和解決どころか兵隊を派遣して、
 機関銃で攻撃を加えてきたのです。

 父は、衛生室に私を探しに来ました。

 『中にいたら、危ない。外にでよう』
 私は父と一緒に建物の外へでました。

 市役所の建物の外には戦争中に作られた防空壕があったので
 そこを目指しましたが、すでに号の中はいっぱいで、
 私たちは仕方なく壕の横にいました。

 銃弾は容赦なく、私たちのほうへ降り注ぎます。

 ばらばらと人が倒れ、そして、父も・・・・。

 私をかばってくれた父の頭を銃弾が無残に貫きました。

 「やられた。國男、後を頼む」
 父は日本語でそういって倒れました。

 私は、とっさに父と共に倒れ、死んだふりをしました。

 父は、すでに息絶えていました。

 銃弾は、壕の外にいる全ての人をなぎ倒し、
 続いて壕の中の人も一人ずつ引き出されて殺されました。

 私は、黙って死んだふりを続けました。

 父を失った悲しさが込み上げ、涙は流れるのですが、声は出せません。

 生死の間をさ迷うあの瞬間を私は忘れた事はありません。

 
  (54p許国雄)


 日本と中国の植民地統治の相違は、どちらかと言うと、
 人間の生命感の相違から来るものではないだろうか。

 台湾人は大正時代を境にして、日本人への反抗運動を武力から政治運動に変え、
 社会主義運動も盛んになった。

 その当煮の台湾人政治運動化は、逮捕投獄されても、死刑者は一人も出なかった。

 しかし、蒋介石親子統治下の台湾は、特に白色テロが横行し、
 1950年代には、学校の少子や親戚が良く判らないうちに逮捕され、銃殺されている。

 蒋介石親子の台湾支配は、台湾を法治社会から人治社会へと引き戻し、
 恐怖政治や白色テロが長く続いた。2.28事件が起こり、
 二週間で殺された台湾人は、日本50年間の統治下に反抗して、
 武力抗争で戦死した台湾人をはるかに上回っている。

( 黄 文雄『大東亜共栄圏』p175)

海南島との比較


ほぼ同じ土地面積を持った台湾と海南島についての比較、つまり日本植民地の洗礼を受けた嶋と、
ずっと中国の辺境として残された島の近代化の比較研究は、じつに示唆に富むものがある。
   p152

中国に支配された海南島と、日本に支配された台湾。

その海南島の人々の80パーセントは、今日もなお電気のない原始生活を送っている。

(黄 文雄『大東亜共栄圏の精神』光文社P204)









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