沖縄戦「集団自決」の真実
沖縄戦において、座間味・慶良間島で痛ましい集団自決事件が起きた。

現在、その集団自決が、軍の命令によって起きたとする派と、軍の命令はなかったとする派の間で
激しい論争が巻き起こっている。

平成19年3月末、文部科学省が平成20年度から使用される高校日本史教科書の検定結果を発表した。
そして、沖縄戦の集団自決について、「日本軍による命令」とされてきたこれまでの教科書記述に
初めて検定意見がつき、「軍の命令」と明記した部分が削除されることになった。

この文部科学省の検定に対して、沖縄では大きな反対運動が起き、6月、7月に沖縄県議会は
検定意見の撤回と記述回復を求める意見書を全会一致で可決。

9月には11万人(実際は2万人弱)が参加したと主題者側が主張する沖縄県民大会が開催された。

沖縄県民のこうした反対と怒りが、本来なら政治的介入をしてはならない教科書記述に大きな影響を与えている。

大阪地裁では、「大江・岩波訴訟」で原告側が敗訴。

日本と沖縄を分離しようとしているのではないかと思えるほど、マスコミは真実を追究するのではなく
日本軍は悪だという思いを日本人全体に煽っているように思う。

私は、沖縄タイムスの「鉄の暴風」大江健三郎の「沖縄ノート」
曽野綾子さんの「沖縄戦・渡嘉敷島集団自決の真実」をはじめ、色々な書物を読んだ。

そして、「軍命令はなかった」という結論に達した。

何故軍命令があったとされるのか?
沖縄の歴史をみていくことの必要性を強くおぼえる。

一人でも多くの人たちに、この沖縄問題に関心を持ってもらいたい。


大田實少将の海軍次官宛の電報

発 沖縄根拠地隊司令官

宛 海軍次官

   

                          (とりはからい)(えたし)
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度

沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ  県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ  現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ

                                                     
いとま
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ 県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ


しか                   おい
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ 僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 尚 砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ

しか
而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ 看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ 挺身切込隊スラ申出ルモノアリ

しょせん                                                               どくが
所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク 婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ 親子生別レ 娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ

看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ 衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ

                        
 はるか
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ  夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者  黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ

是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来 終止一貫 勤労奉仕 物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只管日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ 遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□口口口口

一木一草焦土ト化セン
                  

糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ

沖縄県民斯ク戦ヘリ

県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ




電報の現代語訳

沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。

県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。

沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。

にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛のための召集に進んで応募した。

残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。

しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。

どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。

看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。

その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。

さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。

つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要させられたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。

食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。

沖縄県民はこのように立派に戦い抜いた。

県民に対し、後世、特別のご配慮をしていただくことを願う。
          (

         (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)




沖縄戦「集団自決」の歴史


1609年(慶長14年) 薩摩藩、琉球征伐 
1871年(明治4年)  廃藩置県  琉球王国は鹿児島県に編入される
1872年(明治5年) 琉球藩設置
1879年(明治12年)  沖縄県設置
1941年(昭和16年) 12月8日 真珠湾攻撃。 大東亜戦争開戦
1944年(昭和19年) 8月22日  沖縄の学童疎開者の乗る「對馬丸」が撃沈される
9月 日本陸軍の海上挺進船隊と海上挺進基地大隊
沖縄へ配備
11月3日  沖縄で戦闘を前に決起集会
1945年(昭和20年) 3月10日 東京大空襲
3月23日 米軍が海空から爆撃開始
3月25日 米軍が慶良間諸島に砲艦射撃。             座間味島で宮城初枝らが、梅澤裕隊長の元へ武器をもらいたいと申し出るが、梅澤隊長は断る。        その後、座間味島で住民が集団自決をする。
3月27日  米軍が渡嘉敷島に上陸、翌28日住民が集団自決をする。
4月1日 米軍が沖縄本島に上陸する。
4月2日   読谷村チビリガマで住民が集団自決をする。
6月6日 海軍部隊司令官・大田實少将が「沖縄県民斯く戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノご高配ヲ賜ランコトヲ」との決別電報を打つ。
大田少将は、13日頃に自決する。
6月23日 沖縄守備軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が、   摩文仁司令部で自決する。
7月2日 米軍・沖縄戦終結を宣言する。
8月6日  広島に原爆が投下される。
8月9日  長崎に原爆が投下される。
8月15日   敗戦
1948年(昭和23年) 7月1日  沖縄タイムス創刊
1950年(昭和25年) 8月 沖縄タイムスが「鉄の暴風」を発刊する。             (軍の自決命令があったと記述あり)
1959年(昭和34年)  上地一史「沖縄戦史」(時事通信社)」発刊            (自決命令記載あり)
1965年(昭和40年) 6月  中野好夫、新崎盛暉「沖縄問題二十年」(岩波書店)発刊
(自決命令記載あり)
1970年(昭和45年) 8月 赤松隊の「陣中日誌」発刊。                    (自決命令の記載なし)
9月 大江健三郎「沖縄ノート」(岩波書店)発刊。           取材をせず「鉄の暴風」を孫引きして赤松隊長を侮蔑する。
1971年(昭和46年) 10月 曽野綾子「ある神話の背景」、「諸君!」で連載開始。
1972年(昭和47年) 5月15日 沖縄返還
1973年(昭和48年) 曽野綾子「ある神話の背景」(文藝春秋)発刊。
1977年(昭和52年) 3月26日  宮城初枝が娘(晴美)に「集団自決は梅澤隊長の命令ではなかった」と告白。 
1980年(昭和55年) 12月 宮城初枝が梅澤氏に謝罪する。
1982年(昭和57年)  教科書検定で高校日本史から旧日本軍による住民虐殺の記述が削除される。
9月4日   沖縄が猛反発する。                         
臨時県議会で「教科書検定に関する意見書」を全会一致で採択。
12月6日    「住民虐殺」の記述復活。
1984年(昭和59年) 1月19日 家永教科書裁判第三次訴訟提訴。
沖縄戦の住民犠牲について争われる。
1985年(昭和60年) 4月8日 沖縄タイムス、大田良博(元沖縄タイムス記者)沖縄戦に神秘はない」の掲載開始。 (全10回)
5月1日   曽野綾子氏が沖縄タイムスで反論開始。               (「沖縄戦」から未来に向って(大田良博氏へのお答え)(全五回)
5月11日   大田良博が「土俵をまちがえた人」(全六回)で曽野綾子氏に反論開始。
7月30日    神戸新聞が「絶望の島民悲劇の決断」「日本軍の命令はなかった」との見出しで島民の証言を掲載。
1986年(昭和61年) 6月6日  神戸新聞「沖縄県史」訂正へ。                    「部隊長の命令なかった」と報じる。
1987年(昭和62年) 4月18日  神戸新聞が「座間味島の集団自決の命令者は助役だった」  遺族補償得るため:隊長命:に」と報じる。
4月23日 東京新聞が「村助役が命令」と報じる。
1988年(昭和63年) 1月   大田靖春が「小説新潮」に「第一戦隊長の証言」を掲載。   自決命令を否定する。
1997年(平成9年) 8月29日   家永教科書裁判第三次訴訟、上告審判決。           「沖縄戦」については原告の訴えを却下。
2000年(平成12年) 12月     「軍命令はなかった」と証言し非難を浴びていた宮城初枝の娘
宮城晴美が「母の遺したもの」(高文)出版
2005年(平成17年)  8月5日   梅澤裕らが大江健三郎と岩波書店を大阪地方裁判所に提訴。
8月27日 産経新聞が元琉球政府関係者の照屋昇雄の軍命令を否定する証言を報じる。
2006年(平成18年) 10月3日 沖縄タイムスが「米公文書に「軍命」の見出し。
林博史(関東学院大学)が米公文書館で「米軍が上陸してきたら自決せよ」との軍命があったとする記録を発見。
しかし、「命令」に相当する(command)(order)などの単語はなく、林氏は(tell)を「命令」と翻訳している。
2007年(平成19年) 3月30日 高校教科書検定で「集団自決」について「軍の強制」という表現を削除。
4月20日 伊吹文部科学省大臣が集団自決について「専門家は、軍の関与がなかったとは一言も言ってない」と発言。
7月27日 大江・岩波裁判、第十回口頭弁論
証人尋問:皆本義博、知念朝陸、宮城晴美(宮城晴美は「軍命令があった」と証言。
「ひと月前に考えを改めた」と話し、深見裁判長から「本当にその証言でいいのか」と質された。)
9月10日 期日外の証人尋問・金城重明(福岡高裁那覇支部で実施・非公開)
9月28日 沖縄タイムスが「沖縄戦の集団自決で亡くなったとみられる住民たち」と説明をつけた写真を掲載。
だが、翌日、世界日報が「米軍による住民殺害場面写真」だったと報じる。
9月29日 宣野湾市で「教科書検定意見撤回を求める県民大会」
9月30日 沖縄タイムス、琉球新報、朝日新聞等が県民退会参加人数を主催者発表として「11万人参加」と報じる。
のちに空撮写真から、参加人数が二万人弱と判明。
11月9日 大江・岩波裁判第十一回口頭弁論、当事者尋問:梅澤裕、赤松秀一、大江健三郎
11月27日 沖縄タイムス、「教科書訂正:再検定」で軍強制復活」と報じる
2008年(平成20年) 1月 宮城晴美が「母の遺したもの」新版で、物故した母親の証言を改変。
3月28日 大江・岩波裁判、判決言い渡し。
原告の請求棄却。
ただし、「赤松隊長命令」は疑問視されている。
4月2日に控訴。
3月29日 朝日新聞が社説「集団自決 司法も認めた軍の関与」
「集団自決に日本軍が深くかかわったという事実はもはや動かしようがない」と論点をすりかえて掲載。
 2011年(平成23年)  4月21日  大江・岩波裁判、最高裁判決。
上告を退け、大江勝訴の1、2審判決が確定。

最高裁小法廷(白木勇裁判長)は元戦隊長らの上告を退ける決定をした。
集団自決についての、日本軍の関与を認め、名誉棄損を否定した大江側勝訴の1、2審判決が確定した。

                              



T 沖縄戦集団自決が起きた背景

@沖縄戦が始まる前に、日本軍は老幼婦女子23万人を疎開させていた


昭和20年2月15日、米軍は硫黄島に上陸する。

栗林忠道中将率いる日本軍守備隊は、持久戦に持ち込み5週間にわたって米軍と戦うが、ついに3月26日玉砕、硫黄島の戦いは終結。

その同じ3月26日、米軍は沖縄・慶良間諸島に上陸。

この日から6月23日までの三ヶ月間、日米両軍の間で熾烈な戦闘が繰り広げられ、
座間味島や慶良間諸島で集団自決が起きた。

沖縄戦では十万人の沖縄住民が犠牲になったが、
これは日本軍が沖縄県民に戦いを強制したものではなく
当時の日本全体に行き渡っていた「本土決戦」「一億玉砕」精神により、
沖縄県民が本土決戦を食い止めたのである。

当時の日本は、沖縄県民の犠牲を最小限に食い止めようと、昭和19年7月、サイパン玉砕と同時に
老幼婦女子・学童計十万人を本土へ八万人、台湾へ二万人疎開させることを閣議で決定、
その結果、昭和20年3月まえに約八万人が県外に疎開したのである。


その疎開時、昭和19年8月21日、学童七百人あまりを載せた対馬丸が敵潜水艦の魚雷攻撃により沈没した。

海軍司令官大田實少将は、6月6日付けで発した最後の電報
「沖縄県民斯く戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノご高配ヲタマワランコトヲ」と決別伝法を打っている。

まさに、沖縄県民の必死の戦いがあってこそ、「本土決戦」は回避されたのであり
沖縄県民に心から感謝すべきである。


A沖縄県民の多くは日本軍を信頼し、共に玉砕するつもりだった。


当時の沖縄県民の手記から分かるように、日本軍と一緒になって、最後まで米軍と戦い抜こうとする姿がある。

また、米軍に対しては、アメリカにつかまると大変なことになる、いざとなったら、自分たちは皆一緒に玉砕するのだと思っていた。

集団自決は必然的に起こったことである。

米軍は憎むべき敵であり、日本軍に対しては、「いざとなったら自分たちを一思いに殺してくれるのだ」というほどの信頼感を抱き、そういう思いで県民は米軍上陸を迎えたのである。



B「軍命令」とは無関係な座間味島の集団自決
  「早まって死ぬな」と住民を諭した野田隊長



昭和20年3月26日、米軍上陸と同時に座間味島と慶留間島で集団自決が起きる。

宮城初枝の手記によると、軍の命令という言葉は一切出てこない。

それどころか、住民側から日本軍守備隊長へ自決を申し出たことや
その申し出を隊長が断ったことが書かれている。

慶留間島でも集団自決に失敗し、米軍の捕虜になった大城昌子は
「野田隊長からいざとなったら玉砕するようにと命令があったと聞いていたが
その頃の部落民には全く関係のないことである。

命令んてものは問題ではなく、家族が顔を見合わせて早く死ななければとあせっていた。

考えることといえば、天皇陛下のことと、死ぬ手段だけだった」と言っている。

結論として言うならば、日本軍の命令とは関係なく、米軍に追い詰められた結果として集団自決が起きたのである。



C日本軍の「自決命令」を直接聞いた人は誰一人いない渡嘉敷島集団自決


渡嘉敷島での集団自決が、座間味島の翌日、昭和20年3月27日に起きた。

証言の中には、日本軍の「自決命令」があったとするものもある。

しかし、実際は赤松隊長の命令を直接聞いたものではなく、人から聞いたという伝聞情報なのだ。

それどころか、赤松隊長は、「自決命令」を出したのではなく、村民たちに「生きられるだけ生きてくれ」と指示していたのである。

このことは、赤松隊長の副官だった知念朝睦氏もはっきりと証言している。

「赤松隊長は、村民に自決者があったという報告を受けて、早まったことをしてくれた、と大変悲しんでいました。

私は赤松の側近の一人ですから、赤松隊長から私を素通りしてはいかなる下例も行われないはずです。

集団自決の命令なんて私は聞いたことも、見たこともありません。」(沖縄県史」

以上からも、渡嘉敷島でも、日本軍が集団自決を命令した事実は
ないのである。


参考 「地元民からなる防衛隊と正規の日本軍との違い」

段自決に使われた手榴弾を配ったのは、日本軍ではなく、地元民からなる「防衛隊」だと言われている。

「防衛隊」とは、正規の日本軍とは別に、防衛召集された、地元民のことを言う。

昭和19年10月の防衛召集規則改正により、17歳から45歳までの男子を召集して、
飛行場建設や陣地構築、爆弾運搬などの補助作業に当らせた。

赤松隊長は、防衛隊に手榴弾を渡したことについて次のように言っている。

「防衛召集兵には、これは正規軍ですから、一人一、二発渡しておりました。

艦砲でやられて混乱に陥った時、彼らが勝手にそれを家族に渡したのです。

今にして思えば、きちんと訓練のゆきとどいていない防衛召集兵たちに、手榴弾を渡したのがまちがいだったと思います」  (曽野綾子 「ある神話の背景」)

集団自決は実際には、日本軍が関知していないところで、防衛隊の音頭によって始まったことが分かる。




U沖縄集団自決「軍命令」説は如何に作られ、広まったか?

@日本軍と沖縄県民の離間を狙った米軍の心理作戦

米軍による沖縄侵攻作戦は「アイスバーグ作戦」と呼ばれる。

これは、1944年10月から情報部内に心理作戦チームを編成し、
沖縄戦を有利に進めるための「心理作戦」(心理学的手法に基づく戦時プロパガンダ)の検討を開始した。

そのアイスバーグ作戦によると、沖縄人と本土の日本人との間にあるヒビを利用すること、
つまり、「沖縄人」は日本人ではないと強調することによって、日本軍と沖縄県民との間に
楔を打ち込み、その結果、沖縄県民を沖縄に侵攻する米軍の味方にしようとしたのである。

米軍は、1945年3月末の上陸と同時に、25種類・800万枚もの宣伝ビラを投下した。

それには次のようなことが書かれていた。

「この戦争は皆さんたちは関係ないではありませんか。

皆さんたちは戦いたくない。

しかし、思い掛けもない苦労や損害を受けています。(中略)

内地人は皆さんたちに余計な苦労をさせます。・・・・・・

日本兵が沖縄の人々を殺したり、住家をこわしたりしている事は
皆さんたちに明らかででしょう。

この戦争は、皆さんたちの戦争ではありません。

唯貴方達は、内地人の手先に使われているのです。」

(4月4日の投下ビラ   「沖縄県史」資料編2)


こういったビラは、明らかに日本兵(内地人)と沖縄県民の心理的離間を狙ったものである。

沖縄県民を被害者、日本軍を加害者に仕立てて、両者が対立するように仕向けたのである。

米の作戦は沖縄県民のこころをとらえ、現在に至っている。
まさに大成功したと言える。



A米軍の宣伝のために存在した沖縄の新聞社


945年(昭和20年)4月1日、沖縄本土に上陸した米軍は、直ちに琉球列島米国政府を設置し
沖縄占領統治を開始した。


この沖縄統治は、日本政府を通じて間接統治した本土とは違い、
軍政府による直接統治であった。

また、本土は1945年(昭和20年)9月から、日本が独立したサンフランシスコ講和条約発行の1952年(昭和27年)4月までの6年半だったのに対し、沖縄の場合は、1972年(昭和47年)5月15日に本土復帰するまでの27年間にわたって統治された。


沖縄県民の意志は顧みられず、沖縄の新聞も米軍の御用達新聞となった。

1945年7月25日、占領下の沖縄で初めての新聞「ウルマ新報」(現在の琉球新報)が創刊されたが、
この新聞は、事実上、米軍の広報宣伝紙であった。


現地のニュースは全て米軍政府の検閲を受けた。

米国の宣伝をすることを断ると殺されるかもしれないと思い、否応なしだったという。

一方、本土ではWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)によって
戦争に対する贖罪意識を日本人に植え付けようとする宣伝計画が進行していた。

集団自決が軍の命令であったと記事にした沖縄タイムス(1948年(昭和23年)7月1日創刊)創刊号で
社長の高嶺朝光氏は次のように述べている。

「我々は、アメリカの暖かい援助のもとに生活している。

この下に津を正しく認識することは取りも直さず、アメリカの軍政に対する誠実なる協力者であり、また、これが沖縄を復興する道である。」


以上のように、軍政府に誠実に協力する以外に、新聞人に生きる道はなく、彼らは戦争への贖罪意識に基づいた、新たな新聞つくりをするしか方法がなかったといえよう。



B「軍命令」説の根拠そされる「鉄の暴風」は、米軍の関与なしでは生まれなかった。


日本軍が沖縄県民へ集団自決を命じたとされる根拠は、1950年(昭和25年)に発刊された
「鉄の暴風」(沖縄タイムス社)の記述である。

その「鉄の暴風」の初版にはあるが、第二版以降は削除された次の文章が、まえがき書かれていた。

「われわれ沖縄人として、おそらく、終生忘れることができないことは、
米軍の高いヒューマニズムであった。

国境と民族を越えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は生命を保護され
あらゆる支援を与えられて、厚生第一歩を踏み出すことができたことを、特記しておきたい。」

また、米軍の行った心理作戦の影響を受けたと思える、
元沖縄県議会議長新垣登太氏から、軍政府副司令官ムーレー大佐に出された
1946年4月16日付けの感謝状にも、まえがきと同じような記述がある。


「・・・米軍政府の心暖まる御援助により地元民に衣食住が与えられ、
我々は徐々に心の平静さを取り戻しつつあります。

我々は米軍政府に対する深い感謝の念に心動かされて居ります。

よって我々は、米軍政府に協力し、沖縄の自治再建に身を捧げんとするものであります。・・・・

全ての沖縄人は深甚な感謝の念を抱いて居ります。

これもひとえに、軍政府に負うものであります。

  (中略)
 元沖縄県会の議員を代表し、ここに深い感謝の意を表すものであります。

(沖縄県史 資料編2 和訳篇)




一方、米軍は心理作戦がうまく進んだことを次のように高く評価している。

「彼ら(沖縄県民)は従順で協力的になり、殆ど福音伝道者のような熱心さで、
隠れ場所からでてくるよう他の民間人たちに勧め始めた。

こうした協力は、まだ山の中に留まっている日本兵達には大きな怒りを呼び起こし
彼等(日本兵)は一部の民間人に醜い暴虐を加えた。(中略)

沖縄人の目から見れば、こうした攻撃は日本軍以外の誰の仕業でもないことは
疑う余地がなかった。

最終的には明らかに我々にとって有益な結果をもたらした。

つまり、民間人は日本兵を敵、アメリカ人を友人とみなすようになり、
従って、彼等の長期的協力が確かなものになったのである。

  (沖縄軍政府「民間人に対する日本軍の虐殺の影響」)


こうして生み出されたのが、「日本軍を敵、アメリカ人を友人とみなす」歴史観で書かれた
沖縄戦記「鉄の暴風」である。

沖縄タイムス常務であった豊平良顕氏は
「・・・・中略沖縄戦記の刊行をタイムス者が承ったことは、あるいは・・・・」と証言している。

この証言により、承ったという言葉遣いから、相手は軍政府としか考えられない。

つまり、「鉄の暴風」は米軍の関与なしには生まれなかったのである。



C「真相はかうだ」と同じように毎晩ラジオ番組朗読された「鉄の暴風


「鉄の暴風」に米軍が関与していたことは様々な事実によって証明される。

1949年末、「鉄の暴風」の監修者であり豊平氏が「沖縄戦記の刊行をタイムス社が承った」と
述べていること。

米軍の統治下の沖縄では出版物は皆米軍の検閲を受けていた。
にもかかわらず、出版の許可が下りる前に「承った」と述べていることは
検閲以前の段階で、既に米軍の許可が下りていたことを意味している。


また、出版の交渉をしていたとき、はじめは出版を引き受けるところがあるかどうかさえ
不安に思っていた沖縄タイムスの専務座安盛徳氏は、一週間後に朝日新聞社の態度が急変し引き受けてくれたと言う。

このことからも朝日に対して、米軍から何らかの指示があったと想像される。

そして、「鉄の暴風」出版にあたって、種々の援助があったということからも、その援助が米軍の援助であったと思われる。

「鉄の暴風」普及の経緯が、占領軍が本土で実施したWGIP(ウォー・ギルド・インフォーメーション・プログラム)と酷似している。

沖縄では毎日のように「真相はかうだ」というラジオ番組の中で朗読され、バックにはクラシックを流すという米軍の宣伝図書であることを示している。


D「鉄の暴風」は米軍の検閲を絶えず意識して書かれた


「鉄の暴風」で、何故集団自決が日本軍の命令であると書かれたのか?

渡嘉敷島での集団自決について、「鉄の暴風」では次のように書いている。


「・・・・恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松[嘉次、渡嘉敷島守備隊長]からもたらされた。

 《こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。

  軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する》というのである。(中略)

  日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移した翌27日、地下壕内において将校会  議を開いたがそのとき、赤松大尉は《持久戦は必至である。

  軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる  食糧を確保して、自給態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。

  事態はこの島に住む全ての人間に死を要求している》ということを主張した。

これと聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した。」


また、座間味島での集団自決については、次のように書いている。


「・・・・隊長は梅澤裕少佐、・・・米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた・・・

村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。(中略)

日本軍は・・・最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降《
梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明》した。」

座間味島の梅澤隊長は今もご健在であり、慰安婦・・云々は全くのでたらめである。

また「隊長梅澤少佐のごとき」という箇所は、あきらかに日本軍を馬鹿にした言い方であり、軍を悪者に仕立てようとする意図がみえみえである。

(注 現在出版されている「鉄の暴風」ではこの箇所は削除されている)


「鉄の暴風」が米軍の検閲を意識して、自分たちを護ろうとする自己検閲の心理が働いたことを、沖縄タイムス自身が認めている。

彼等が自己検閲する基準は何であったか?

日本側から米軍政府に提出された「検閲規定草案」によると

「天皇現人主義、封建主義、軍国主義、財閥、武士道、大東亜、自殺あるいは、自由人の本然の権利を否定するすべての思想、又は信仰(仇討を美徳とする思想)を賛美すべからず。非民主的封建思想に対する盲従的伝統に従い、民衆の利益をジュウリンすべからず。(中略)」

「連合軍ならっびに連合国を悪批判する演劇、出版なるものを禁ず」とある。

これらの検閲規定草案は、日本側が自主規制であるから、集団自決=自殺は賛美できず、米軍に追い詰められてと書くと米軍を批判しているので書けなかった。

そして、日本軍の命令としたのである。



E家永三郎氏も軍命令説を撤回していた


「鉄の暴風」に書かれた「軍命令」説はその後、色々な本に引き継がれていった。

上地一史「沖縄戦史」(時事通信社 昭和34年」
中野好夫・新崎盛「沖縄問題二十年」(岩波書店、昭和44年)
家永三郎太平洋戦争」(岩波書店、昭和43年)
大江健三郎「沖縄ノート」(岩波書店 昭和45年)

この中で多数の読者を獲得して社会的に大きな影響を与えたのが
家永氏の「太平洋戦争」と大江健三郎「沖縄ノート」である。


家永氏は「太平洋戦争」の第二版では、渡嘉敷島については諸般の記述を訂正し
「軍命令」説を事実上撤回している。

しかし、座間味島の自決命令を日本軍がやったということは訂正せずそのまま残っている。


平成5年10月20日に出た高裁判決文では、軍命令説を容認する一方で、その原因が軍の命令
ではないとしている。

平成9年に出された、最高判決文では
軍命令が原因のすべてではないし、最高裁判決文(平成9年8月29日)も
「日本軍による住民殺害と集団自決とは異なる特徴的事象」であるとして
「集団自決」=「日本軍による住民殺害」であるという説を退けた。


F大江健三郎氏の根拠のない虚構と「沖縄ノート」


ノーベル賞を受賞した作家大江健三郎の書いた「沖縄ノート」において
慶良間列島において行われた700人を数える老幼者の集団自決の責任者を
名指しはしていないが、赤松隊長だと分かる書き方をしている。

そして、元座間味島守備隊長梅澤裕氏と渡嘉敷島の赤松嘉次隊長の弟赤松秀一氏は
平成17年8月、岩波書店と大江氏相手として、名誉毀損の訴訟を大阪地裁に起こした。

その結果、岩波・大江の勝訴となった。

「沖縄ノート」において、渡嘉敷島の村民集団自決が赤松大尉の命令であると決め付け、
赤松大尉を「ペテン師」「屠殺者」「戦争犯罪人」呼ばわりしている。

その上「ユダヤ人を大量虐殺したナチスのアイヒマンと同じであると、大きな侮辱や
人格否定をしている。

沖縄ノートの中で大江氏は
「このような日本人ではないところの日本人に自分をかえることはできないか」と
執拗なほどに繰り返している。

大江の言う「このような日本人」とは、残虐非道な日本人のことであり、大江自身は「このような日本人」とは決別した日本人だと言いたいのである。

今年の春の、「大江裁判第一審」で、
大阪地裁・深見敏正裁判長は、原告の請求をすべて棄却した。

近頃、“ヘンな裁判官によるヘンな判決”が流行っているが、
本件はその極みとして歴史に汚点を残すに違いない。


早速に朝日はこの判決に狂喜乱舞している。

それが証拠に、「書籍に記載された通りの自決命令自体まで認定することは
躊躇を禁じえない」とした判決を、
「『集団自決には旧日本軍が深くかかわった』と認定」と報道している。

例によって例の如くの捏造報道である。


V 「沖縄集団自決・軍命令説」の崩壊


@渡嘉敷島の集団自決の真相 T
曽野綾子氏は「鉄の暴風」に疑問を持った

渡嘉敷島の集団自決に対して、初めて疑問を呈したのは、曽野綾子氏の「ある神話の背景」(文藝春秋、昭和48年)だった。
この本は現在「集団自決の真実」という題名で、WACから出版されている。

曽野綾子氏は、昭和46年7月、渡嘉敷島に数日間滞在し、関係者へ徹底取材を行った。

その結果、「鉄の暴風」の記述が信憑性にかけることが明らかになった。

曽野氏は決して軍命令がなかったと決め付けて言っているのではない。

もし、軍命令があったという確実は証拠があれば、直ちに訂正すると言っている。
しかし、現在のところ、軍命令があったという確実な証拠は見つかっていないとするのだ。

曽野氏は著書の中で次のように書いている。

「私は、直接の体験から《赤松氏が、自決命令を出した》と証言し、証明できた当事者に一人も出会わなかった」

曽野氏は赤松大尉の命令により、住民329人が集団自決したと書かれた多くの資料や本を調べ、
いずれも、昭和25年に沖縄タイムスから発刊された「沖縄戦記 鉄の暴風」の記述から孫引きされていることを突き止めた。

沖縄タイムスの当時の担当者や取材協力者にもあたり、「鉄の暴風」の記述が、集団自決の直接の目撃者ではない二人の伝聞に基づいて書かれたことを知る。

さらに、曽野氏は赤松元大尉をはじめ、その部下たちや集団自決を目撃した渡嘉敷島の住民から丹念に取材をし、その結果、集団自決が起きたが、赤松氏が自決命令を出したという証言は得られなかったのだ。

「鉄の暴風」に登場する赤松大尉の部下であった知念少尉は、地下壕や将校会議の存在を否定した。
そして、赤松氏の自決命令をきっぱりと否定したのである。

また、当時、赤松元隊長の側に居て、軍命令があったかどうかを証言できる、安里喜順巡査は、赤松隊長は自決命令を出したどころか、「最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ」と正反対のことを言ったと証言している。

曽野氏が調査しているうちに、「軍命令がうまれた背景には、軍命令にしないと遺族年金がもらえない」と言う説があったということがあると、ひとつの意見として述べている。


A渡嘉敷島集団自決の真相 U
赤松隊長は村を助ける、村民にとっては神のような存在だった。

元琉球政府社会援護課職員 照屋昇雄(てるやのぶお)氏の証言

集団自決が軍命令であったとしたのは、遺族年金をもらえるようにするためのものであったと、照屋氏は証言した。
照屋氏は、昭和30年から31年にかけて、遺族を調査し、その際、渡嘉敷島民に聞き取り調査をしている。

平成18年8月27日の「産経新聞」に掲載された、照屋氏との一問一答の中で、
集団自決が軍の命令であったと証言した住民は一人も居なかったと言っている。

では、何故軍命令であったことになったのか?については
厚生省援護課から「軍の隊長の命令があった」とすると、援護金が出るから、赤松元大尉に「隊長命令とする命令書を作ってほしい」と頼みに行き、隊長は村民のためを思って判を押しサインをしたのだ。

そして、住民はそのことを皆知っていたが、真相は絶対に言わなかった。

照屋氏が昭和35年の時点で書き残したメモにも、上のようなことが書かれている。


B座間味島集団自決の真相 T
「軍命令」の証言を撤回した宮城初枝(元女子青年団員)


座間味島集団自決は梅澤裕隊長の命令であったと証言した宮城初枝氏(元女子青年団員)の証言「梅澤部隊長から、・・・老人子どもが全員、今夜忠魂碑前において玉砕すべし、という命令があった」
 (宮城初枝 「沖縄戦最後の日」「家の光」昭和38年4月号)

この証言は、初枝氏の「沖縄敗戦秘録ー悲劇の座間味島、昭和43年 私家版)にも収録されている。

その後、昭和52年(1977年)、この証言を覆す証言を、娘の宮城晴美氏に対してしたのである。

宮城晴美氏の著書「母の遺したもの」の中で、次のように言っている。

「母が私に《悲劇の座間味島》で書いた「集団自決」の命令は、梅澤隊長の命令ではなかった。

でも、どうしても隊長の命令だと書かなければならなかった」と語りだしたのは、1977年(昭和34年)3月26日のことだった。

その日は、座間味島で集団自決をした人たちの三十三回忌であった。(中略)慰霊祭が終わった日の夜、母は私に、コトの成り行きの一部始終を一気に話し出した。梅澤戦隊長のもとに、「玉砕」の弾薬をもらいに行ったが帰されたこと、戦後の「援護法」の適用をめぐって結果的に事実と違うことを証言したことなど。そして「梅澤さんが元気な間に、一度会ってお詫びしたい」とも言った。」(宮城晴美「母の遺したもの」)

そして、宮城初枝氏は、それから三年後の昭和55年(1980年)、梅澤隊長に会い、謝罪している。

つまり、座間味島の集団自決も、渡嘉敷島と同じように、援護法の適用を受けるために「軍命令」があったということにしたのである。


A座間味島集団自決の真相 U
補償を得るために「隊長命令」と申請した


座間味島も、渡嘉敷島と同様に、実際の援護業務に携わった役場の担当者から、「軍命令」はなかったことを裏付ける証言がなされた。

このことを最初報じたのは、「神戸新聞」であった。

証言したのは、昭和28年から13年間、自決者・戦没者遺族の補償業務に当った座間味村役場元援護係の宮村幸延氏である。

彼は、「神戸新聞」の取材に匿名で応じ、軍の命令はなかったことを証言した。

「米軍上陸時に、住民で組織する民間防衛隊の若者たちが、避難壕を回り、自決を呼びかけた事実はあるが、軍からの命令はなかった。

戦後も窮状をきわめた村を救いたい一心で、歴史を拡大解釈することにした。

戦後初めて口を開いたが、これまで私自身の中で大きな葛藤があった。」
(昭和62年4月18日付けの神戸新聞)

宮村氏は、集団自決で亡くなった座間味村助役宮里盛秀氏の弟で、当時座間味村遺族会長の地位にあった。

そして、同年3月28日、座間味島を訪問した梅澤氏に対しても、文書で証言している。

証言  座間味村遺族会長 宮村幸延

昭和20年3月26日の集団自決が梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里秀盛の命令で行われた。

之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむえ得ず隊長命として申請した、ためのものであります。

右当時援護係  宮村幸延 〇印
 
梅澤紘殿      昭和62年3月28日

現在大阪地裁で争われている裁判で、被告側はこの「証言」は宮村幸延氏本人が書いたものではなく、梅澤氏が自分で書いたものだと主張しているが、宛名の「梅澤紘殿」の「紘」は、実名「裕」とは異なっている。

梅澤氏本人が書いたのなら、名前を間違うはずがない。

以上のように、慶良間島でも、座間味島でも、軍命令はなかったとする証言者が続出している。

そして、それは遺族年金をもらうための嘘であったと言う。

第三者の役場の担当者の証言もあり、軍命令があったという説は完全に破綻した。

文部科学省はこういった事実経過を踏まえ、昭和57年の教科書事件以降、集団自決の軍命令説が一人歩きしていた教科書の現状に対して、初めてNOと言ったのである。



B座間味島集団自決の真相 V
 宮平秀幸さんの証言



藤岡信勝(自由主義史観研究会代表)が2008年1月、東京の旅行会社が企画した38人参加のツアーの一員として座間味島と訪れた。

そして、日本軍守備隊が米軍陣地に対し決死の切り込みを敢行して玉砕した記念碑「昭和白鯱隊之碑」のある、二本松で、偶然、宮平秀幸氏に遭遇したのだ。

同行していたチャンネル桜の井上氏の質問に対して、次のように答えたのである。

「軍命令はないです。

それで逆に部隊長が目を皿にして、軍刀を持って立って出した命令が、「俺の言うことが聞こえないのか。よく聞けよ。私たちは国土を守り、国民の生命・財産を守るための軍隊であって、住民を自決させるために来たんじゃない。だから、あなた方が武器弾薬毒薬を下さいと来ても、絶対渡すことは出来ません」と…

梅澤隊長が言ったと証言した。

宮平氏は当時梅澤隊長と2〜3メートル離れた距離で、聞いていた。

信憑性は大だ。

藤岡氏は、宮平証言と突き合わせるため、2月6日、兵庫県西宮市のホテルで梅澤さんから3時間にわたるインタビューを行った。

さらに、2月10日から三日間、座間味島にて宮平さんに追加のインタビューを行い、資料提供を受けた。

同時に、3日間の間に、島民10人からの聞き取り調査を行った。

まさに真実を語る人物から証言を得たのである。



C座間味島集団自決の真相 W
座間味戦の裏側にあるもの(沖縄人の見た沖縄戦)

ルポライター(沖縄国頭郡出身)富村順一氏の証言(昭和史研究所会報)より



平成19年11月9日、大阪地裁。

大江・岩波裁判の日、傍聴券を求める人々の中に車椅子の人物が居た。

この人が配布したA4版3ページの文書は、梅澤・赤松両元隊長も無実を訴え、大江健三郎に謝罪を求める切々率直な内容のものであった。

この人こそ、誰あろう。

かつては左翼帆船平和運動に携わりながら、梅澤裕隊長の「自決命令」のなかったことを知るや、翻然梅澤氏弁護の運動を開始し、それが宮城初枝氏の告白を促し、神戸新聞に「梅澤隊長の命令なし」の記事を掲載させるきっかけを作った富村順一氏(「隠されたれ沖縄戦記」などの著者)だ。

いわば、梅澤隊長の冤罪が晴れる大きな一歩を刻んだ富村氏の正直で義に強い人柄に、かねて中村粲氏は敬服していたが、大江裁判の折に氏の配布した文書を読んで感銘を新たにし、氏にニ、三の質問を含んだ書簡を送った。

それに対して、11月30日、氏からテープレコーダーに録音した委曲を尽くした返事を頂戴した。

貴重な体験と証言を含む内容であった。

富村順一氏の略歴

昭和5年沖縄国頭郡本部朝町に生まれる。

12年国民初等科2年の時、奉安殿に畏敬礼を拒否して放校される。

29年那覇刑務所暴動に参加。

45年東京タワー特別展望台で米人宣教師を人質に、沖縄問題、天皇の戦争責任追及を訴え立てこもる。

48年出獄と同時に久米島で虐殺された朝鮮人の慰霊塔建立を呼びかけ、独力で運動を開始。

50年座間味島集団自決の真相究明活動開始。

52年関根清氏に会い、梅澤裕氏の無実と健在を聞き、梅澤氏と会って確認。

座間味に渡り、宮城初枝氏に真相を伝える。

その後、アジア平和集会で座間味戦の真実を訴え、嘘の平和運動と決別。

犬をパート−ナーに沖縄戦の真実を訴える全国行脚に出る。

平成2年大阪西成で暴動を起こす。

また新宿駅西口や大阪難波の高島屋前で路上生活をしながら座間味戦の新何時を訴える。

平成6年夏、東京練馬区で、左翼グループに急襲殴打され、車椅子生活の身となる。

平成19年11月9日大江・岩波裁判には不自由な体を押して、大阪地裁に赴き、両元隊長の無実を訴え、大江に謝罪を求める文書を配布した。

その直後、中村代表が呈した書簡に対して11月30日、テープレコーダーに録音して送られてきた富村氏の返事を文字化した。

目下、座間味で日本軍将校と自決した朝鮮慰安婦のために同地に桜と木槿を植樹する運動を提唱している。

著書に「わんがうまりや沖縄」「最敬礼拒否の足跡」「琉球慰安婦」「沖縄戦語り歩き」「隠された沖縄戦記」ほか多数ある。


沖縄戦で亡くなった、19万人の人たちは、日本の誇りであり、決して犠牲者ではない。

日本軍と共に戦った沖縄県民を、慰霊ではなく顕彰すべきである。

世界に誇る宝である。

沖縄県民は米軍と戦ったのであり、日本軍と戦ったのではない。

戦後の日本軍は悪であるという意識を払拭しないかぎり、集団自決の真実を知ることはできないであろう。





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