発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
(とりはからい)(えたし)
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ 県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ 現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
いとま
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ 県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ 衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ
はるか
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ 夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者 黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来 終止一貫 勤労奉仕 物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只管日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ 遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□口口口口
一木一草焦土ト化セン
い
糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。
県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。
にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛のための召集に進んで応募した。
残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。
その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要させられたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように立派に戦い抜いた。
県民に対し、後世、特別のご配慮をしていただくことを願う。
(
1609年(慶長14年) | 薩摩藩、琉球征伐 | |
1871年(明治4年) | 廃藩置県 琉球王国は鹿児島県に編入される | |
1872年(明治5年) | 琉球藩設置 | |
1879年(明治12年) | 沖縄県設置 | |
1941年(昭和16年) | 12月8日 | 真珠湾攻撃。 大東亜戦争開戦 |
1944年(昭和19年) | 8月22日 | 沖縄の学童疎開者の乗る「對馬丸」が撃沈される |
9月 | 日本陸軍の海上挺進船隊と海上挺進基地大隊 沖縄へ配備 |
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11月3日 | 沖縄で戦闘を前に決起集会 | |
1945年(昭和20年) | 3月10日 | 東京大空襲 |
3月23日 | 米軍が海空から爆撃開始 |
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3月25日 | 米軍が慶良間諸島に砲艦射撃。 座間味島で宮城初枝らが、梅澤裕隊長の元へ武器をもらいたいと申し出るが、梅澤隊長は断る。 その後、座間味島で住民が集団自決をする。 |
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3月27日 | 米軍が渡嘉敷島に上陸、翌28日住民が集団自決をする。 | |
4月1日 | 米軍が沖縄本島に上陸する。 | |
4月2日 | 読谷村チビリガマで住民が集団自決をする。 | |
6月6日 | 海軍部隊司令官・大田實少将が「沖縄県民斯く戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノご高配ヲ賜ランコトヲ」との決別電報を打つ。 大田少将は、13日頃に自決する。 |
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6月23日 | 沖縄守備軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が、 摩文仁司令部で自決する。 | |
7月2日 | 米軍・沖縄戦終結を宣言する。 |
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8月6日 | 広島に原爆が投下される。 | |
8月9日 | 長崎に原爆が投下される。 | |
8月15日 | 敗戦 |
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1948年(昭和23年) | 7月1日 | 沖縄タイムス創刊 |
1950年(昭和25年) | 8月 | 沖縄タイムスが「鉄の暴風」を発刊する。 (軍の自決命令があったと記述あり) |
1959年(昭和34年) | 上地一史「沖縄戦史」(時事通信社)」発刊 (自決命令記載あり) | |
1965年(昭和40年) | 6月 | 中野好夫、新崎盛暉「沖縄問題二十年」(岩波書店)発刊 (自決命令記載あり) |
1970年(昭和45年) | 8月 | 赤松隊の「陣中日誌」発刊。 (自決命令の記載なし) |
9月 | 大江健三郎「沖縄ノート」(岩波書店)発刊。 取材をせず「鉄の暴風」を孫引きして赤松隊長を侮蔑する。 | |
1971年(昭和46年) | 10月 | 曽野綾子「ある神話の背景」、「諸君!」で連載開始。 |
1972年(昭和47年) | 5月15日 | 沖縄返還 |
1973年(昭和48年) | 曽野綾子「ある神話の背景」(文藝春秋)発刊。 | |
1977年(昭和52年) | 3月26日 | 宮城初枝が娘(晴美)に「集団自決は梅澤隊長の命令ではなかった」と告白。 |
1980年(昭和55年) | 12月 | 宮城初枝が梅澤氏に謝罪する。 |
1982年(昭和57年) | 教科書検定で高校日本史から旧日本軍による住民虐殺の記述が削除される。 |
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9月4日 | 沖縄が猛反発する。 臨時県議会で「教科書検定に関する意見書」を全会一致で採択。 |
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12月6日 | 「住民虐殺」の記述復活。 | |
1984年(昭和59年) | 1月19日 | 家永教科書裁判第三次訴訟提訴。 沖縄戦の住民犠牲について争われる。 |
1985年(昭和60年) | 4月8日 | 沖縄タイムス、大田良博(元沖縄タイムス記者)沖縄戦に神秘はない」の掲載開始。 (全10回) |
5月1日 | 曽野綾子氏が沖縄タイムスで反論開始。 (「沖縄戦」から未来に向って(大田良博氏へのお答え)(全五回) |
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5月11日 | 大田良博が「土俵をまちがえた人」(全六回)で曽野綾子氏に反論開始。 |
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7月30日 | 神戸新聞が「絶望の島民悲劇の決断」「日本軍の命令はなかった」との見出しで島民の証言を掲載。 |
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1986年(昭和61年) | 6月6日 | 神戸新聞「沖縄県史」訂正へ。 「部隊長の命令なかった」と報じる。 |
1987年(昭和62年) | 4月18日 | 神戸新聞が「座間味島の集団自決の命令者は助役だった」 遺族補償得るため:隊長命:に」と報じる。 |
4月23日 | 東京新聞が「村助役が命令」と報じる。 |
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1988年(昭和63年) | 1月 | 大田靖春が「小説新潮」に「第一戦隊長の証言」を掲載。 自決命令を否定する。 |
1997年(平成9年) | 8月29日 | 家永教科書裁判第三次訴訟、上告審判決。 「沖縄戦」については原告の訴えを却下。 |
2000年(平成12年) | 12月 | 「軍命令はなかった」と証言し非難を浴びていた宮城初枝の娘 宮城晴美が「母の遺したもの」(高文)出版 |
2005年(平成17年) | 8月5日 | 梅澤裕らが大江健三郎と岩波書店を大阪地方裁判所に提訴。 |
8月27日 | 産経新聞が元琉球政府関係者の照屋昇雄の軍命令を否定する証言を報じる。 | |
2006年(平成18年) | 10月3日 | 沖縄タイムスが「米公文書に「軍命」の見出し。 林博史(関東学院大学)が米公文書館で「米軍が上陸してきたら自決せよ」との軍命があったとする記録を発見。 しかし、「命令」に相当する(command)(order)などの単語はなく、林氏は(tell)を「命令」と翻訳している。 |
2007年(平成19年) | 3月30日 | 高校教科書検定で「集団自決」について「軍の強制」という表現を削除。 |
4月20日 | 伊吹文部科学省大臣が集団自決について「専門家は、軍の関与がなかったとは一言も言ってない」と発言。 | |
7月27日 | 大江・岩波裁判、第十回口頭弁論 証人尋問:皆本義博、知念朝陸、宮城晴美(宮城晴美は「軍命令があった」と証言。 「ひと月前に考えを改めた」と話し、深見裁判長から「本当にその証言でいいのか」と質された。) |
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9月10日 | 期日外の証人尋問・金城重明(福岡高裁那覇支部で実施・非公開) | |
9月28日 | 沖縄タイムスが「沖縄戦の集団自決で亡くなったとみられる住民たち」と説明をつけた写真を掲載。 だが、翌日、世界日報が「米軍による住民殺害場面写真」だったと報じる。 |
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9月29日 | 宣野湾市で「教科書検定意見撤回を求める県民大会」 | |
9月30日 | 沖縄タイムス、琉球新報、朝日新聞等が県民退会参加人数を主催者発表として「11万人参加」と報じる。 のちに空撮写真から、参加人数が二万人弱と判明。 |
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11月9日 | 大江・岩波裁判第十一回口頭弁論、当事者尋問:梅澤裕、赤松秀一、大江健三郎 | |
11月27日 | 沖縄タイムス、「教科書訂正:再検定」で軍強制復活」と報じる | |
2008年(平成20年) | 1月 | 宮城晴美が「母の遺したもの」新版で、物故した母親の証言を改変。 |
3月28日 | 大江・岩波裁判、判決言い渡し。 原告の請求棄却。 ただし、「赤松隊長命令」は疑問視されている。 4月2日に控訴。 |
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3月29日 | 朝日新聞が社説「集団自決 司法も認めた軍の関与」 「集団自決に日本軍が深くかかわったという事実はもはや動かしようがない」と論点をすりかえて掲載。 |
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2011年(平成23年) | 4月21日 | 大江・岩波裁判、最高裁判決。 上告を退け、大江勝訴の1、2審判決が確定。 最高裁小法廷(白木勇裁判長)は元戦隊長らの上告を退ける決定をした。 集団自決についての、日本軍の関与を認め、名誉棄損を否定した大江側勝訴の1、2審判決が確定した。 |