東条首相は、シンガポールに行くボースに飛行機をプレゼントしようとするが、ボースは受取らなかった。

『これを貰うと、敵は我がインド臨時政府が日本の傀儡だと言うでしょう。これは、戴くのではなく、お借りするのです。日本政府の帳簿に、この専用機の売却料金を自由インド仮政府への貸し金として記帳して置いてください。インド独立の暁には、かならず料金をお支払い致します』

ボースは、政府及び多くの人々から送られた絵画や日本刀、その他の贈り物をすべて辞退し、ただ一つだけ受け取った。それは大分県の小学生が送ってきた青竹の一節で作った貯金箱であった。

『わずかですが僕が貯金したものです。インド独立のために戦っている兵隊さんに上げてください』と書き添えてあった。

『此れだけは戴いてまいります』

チャンドラ・ボースは大東亜会議において南京政府代表汪兆銘と意気投合し、シンガポールに帰る途中、南京に寄り、重慶の蒋介石に向かってラジオ放送を行う。

「重慶の諸君は、孫文を近代中国の父と仰ぐが、われわれインドにとっても、孫文はそれ以上の存在である。彼がインドの友であることは、彼が終始インド独立の確固たる支援者であったこと、列国帝国主義の頑強な反対者であったこと、それに加えて忠実なアジア解放者であったことを見ても判る

 これまでアジア諸民族の解放と結集の障害になっていたのは、一つは西欧帝国主義の存在、その二つは、アジア弱小諸国へ援助の手を伸べるアジア勢力が欠如していた事であった。今、後者の役割を演じるは、ひとり日本のみである。

 日本がその役割を果たすためには、西欧帝国主義と決別しない限り不可能であった。

その待望の時期はついに1941年12月、日本が敢然、米英に対し決裂の運命的宣言をし、生か死かの闘争に突入した時に訪れたのである。

 私は東亜に帰って、インド独立連盟の任務に入って以来、日本と密接な協力の元に活動しているが、もし日本の誠意に疑わしい節があるなら、私のような民族主義者、革命家にとって日本との協力は絶対に不可能であった筈である。

 大東亜会議は日本の誠意と真実を確信させるものであった。


しからば重慶の諸君は、今日、何者と戦っているのか

 重慶の諸君は、敵と手を組み、味方と戦っているのではないか。

諸君はしばらく休息し、熟慮し、しかして、決意する用意は無いか」

 しかし重慶からの返事は無かった。

昭和19年3月に始まった、日本軍とインド国民軍の共同作戦、インパール作戦は 失敗する。

このときインド国民軍は二個師団4万人を数え、インドのジャンヌダルクと呼ばれる女医ラクシミーを隊長とする600人からなる女子部隊ラニー・オブ・ジャンシー連隊も参加している。(ラニー・オブ・ジャンシー:ジャンシー(都市の名)の王妃。ラクシュミーバーイのこと。セポイの反乱の際のヒロイン、反英闘争の象徴として有名)

一度はインド領インパール、コヒマまで進軍するが、物量に勝る英軍、日本側の兵站の欠如そして雨季の豪雨により撤退を余儀なくされ、インパール作戦は失敗に終わる。

「鉄兜を肩にかけ、婦人部隊の先頭に立って、堂々と歩くボースさんの姿を見ていると泣けてきたものです」光機関磯田中将談。


昭和20年8月15日、ついに日本は戦いに敗れる。

しかし、ボースは諦めることなく、次はソ連に援助を頼もうと、日本経由でソ連に行くためサイゴンに飛び、南方総軍司令寺内元帥に手配を頼む。

その時、日本にはおんぼろ飛行機しか残っていなかった。大連に向かう途中に寄った台湾の台北松山空港で、離陸に失敗し、墜落。ネタジー・スバス・チャンドラ・ボースは帰らぬ人となった。

遺骨は東京に送られ、インド臨時大使館(インド独立連盟)に渡そうとしたが、大使館は、ボースは生きている、死ぬはずがない。と遺骨を受け取ることを拒否する。

そこで、仕方なく杉並区の蓮光寺に安置され、インドから引き取りに来るまで保管されることになった。

しかし、以後もインド政府はボースの死亡を公式に認めず、現在に至っているのである。

しかし、ネール首相、インディラ・ガンジー首相も蓮光寺にお参りに来ているそうだ。

戦後、東京裁判に、ネールはインドにおける国際法の最高権威ラダ・ビノード・パール博士をインド代表判事として日本に送り込んでくる。

パール判事は、物見遊山に休日を楽しむ他の判事を尻目に、ホテルに籠もり、大東亜戦争に関する内外の膨大な資料を集め、二年半掛けて研究し、1000ページを越す判決文を書き、被告は全員無罪であると断言した。

それに対して東条元首相は、遺言で次のように言っている。

(遺言全文。絞首刑前日、巣鴨刑務所に於いて花山信勝教戒師に口述)

一、開戦当初の責任者として敗戦の後を見ると、実に断腸の思いがする。

今回の刑死は個人的には慰められているが、国内的責任は死を持って贖えるものではない。

しかし、国際的裁判に対しては無罪を主張する。

たまたま力の前に屈服したものである。

国内的責任に付いて、満足して刑死に付く。

一、東亜の民族は、他民族と同様に、この天地に生きる権利を持っている。

その有色である事を、神の恵みとし、誇りとしている。

インドの判事には尊敬の念を感じている。

これをもって東亜民族の誇りと感じた。

私は今回の戦争を通じて、東亜民族の生存に対する権利の主張を達したものと思っている。

一、米国に対し、今後人心を離れしめざる事と、赤化せしめざる事を頼む。

極東の体制はまさに赤化の中にある。

終戦三年にして既に然り。

今後の変転を憂う(中共軍が中国全土を制圧しつつあった)米英側指導者は、
今次大戦で大きな失敗を犯した。

第一は日本という赤化の防壁を破壊し去った事である。

第二は、満洲を赤化 の根拠地にしてしまった事である。

第三は、朝鮮を二分して東亜紛争の因たらしめた事である。

一、日本軍人一部の間違った行為に付いては衷心謝罪する。

しかしながら、無差別爆撃や原子爆弾の投下による悲惨な結果に付いては、
米軍側に於いても大いに悔悟あるべきな り。

一、最後に軍事問 題について一言する。わが国従来の統帥権独立の思想は間違っていた。あれでは陸海軍一本の行動は執れない。

(誤解を避けるために一言)
パール判事の日本無罪論は日本に「エコヒイキ」をしたのではない。

パール判事が後日来日した時、日本が歓迎会を催したのだが、その時、ある日本人が『同情ある判決をありがとう』というとパール判事は立ち上がり、こう言っている。

『それは間違いである。


私は日本に同情して判決文を書いたのでは在りません。

私は二年八ヶ月をかけて膨大な証拠書類を調べました。

それをもとにして、私は法律に基づいて判決文を書いたのであり、
それ以上でも、以下でありません』

また、昭和26年9月8日のサンフランシスコ講和条約が結ばれた時、インドは参加しなかった。

ネール首相は、「講和条約の第11条、日本は東京裁判の判決を受け入れる、という項目は、
不平等条約である」と言って、講和条約に参加せず、
後日、日本とインドの単独講和条約を結んでいる。

もちろん、日本への賠償金も要求していない。(ビルマも同様に日本と単独講和している。)


さて、戦後、英帝国は、インパール作戦に参加したインド国民軍INA将兵1万9千500名を、
大英帝国に対する忠誠に背き、敵に通謀し、利敵行為を行い、
反逆したかどで軍事裁判に付する旨を明らかにする。

これに対するインド民衆の反抗は非常に激しく、
この事件で起訴された三人の大佐が裁判所の所在地ニューデリーに到着するや、
英軍の勝利を祝うビクトリーデイ記念日に、市民が全戸弔旗を掲げ
、商店は店を閉め、学生は学校を休み、労働者は職場を離れ、
この日をインド民族の悲しき記念日として、独立運動犠牲者の黙祷を捧げた。

これはカルカッタ、ボンベイ、その他の地方にも広がっていった

デリーのレッド・フォート(ラール・キラ赤い城)の監獄に収監された兵士たちは、
汚れ、破れているにも拘わらず、ネタジーから授けられた栄光ある軍服と階級章を付けた侭で、
朝な夕なに進軍歌を歌い、「ジャー・ヒンド(インド万歳)」「チェロ・デリー(征け、デリー)」と叫び、
監獄は異様な雰囲気に包まれた。

 レッド・フォートとは、(ラール・キラ赤い城:ムガール帝国5代目の王シャー・ジャハンが赤砂岩で造った城)

日本人も証人として、当時のインド国民軍に関係した軍人、行政官などが、
連合軍の命令でインドに召喚された。

対インド政策を行った「F機関」の機関長藤原岩一中佐もその一人で、彼によると

「白髯胸を覆う法曹界最長老、主席弁護人パラバイ・デサイ博士は、
私たち日本人の前でこう言った。

『インドは程なく独立する。

その独立の契機を与えて呉れたのは日本である。

インドの独立は日本のお陰で30年早まった。

これはインドだけでなく、ビルマも、インドネシアもベトナムも・・・・

東亜民族共通である。

日本の復興にあらゆる協力を惜しまない。

皆さんは、ネタジーにとって、INAにとって、いずれも恩義ある賓客で、
最善の御持て成しをしたいのですが、英軍当局がなんとしてもそれを許さず、
このような未決囚的な取り扱いしか出来ない事を、申し訳なく思っている。

もし不都合の点が在ったら遠慮なく申して頂きたい』と。」

1945年、昭和20年11月5日、英印軍司令官マウントバッテン将軍の指揮の下、
第一回軍事裁判が始まる。

インパール作戦でいずれも連隊長を務めたシャー・ナワーズ・カーン大佐、セイガル大佐、
G.S.ディロン大佐の三人が被告となった。

三人はヒンドゥー教、イスラム教、シーク教を代表する形になった。

後のインド首相、ネールも法衣を着て弁護に立った。

「ネタジーを首班とする自由インド仮政府は、日本、ドイツ、イタリア、クロアチア、
タイ国など七カ国から承認された合法政府である。

しかも、その合法政府は国際法に則り英国に宣戦を布告したのである。

被告らはシンガポールで英軍の手から日本軍に接収された時点で、
英国皇帝に対する忠誠の義務から解かれた者で、
その後は彼らの自由意志に基づきインド独立国民軍に参加し、
合法政府の国軍将校として祖国独立のために戦った愛国者である

インド国民軍の母国への進撃は、
英国の支配と搾取に抗して戦ったアメリカの独立戦争にも比すべきものだ

交戦権を有する独立政府の将兵を、他国である英国政府が軍事裁判に付するとは何事か」

裁判が始まるとデリー、カルカッタ、ラホール、マドラス等の主要都市で大衆の抗議運動が起こり、
暴動に発展する。

デリーでは、囚人たちが収監されているレッド・フォートの城壁外に押し寄せた大衆の喚声が、
場内に拘禁されているINA将兵の喚声と相こだまし、壮絶な光景となり、
出動した英国軍隊が市民に機関銃を掃射し、150名以上の死者を出し、市街戦さながらの様相を呈する。
1946年1月3日、イギリス政府は3被告に無期流刑の判決を下すが、
国民の激昂を恐れ、刑の執行を停止し、執行猶予で釈放。

三被告は国民的英雄となり大歓迎される。

しかし、イギリスは面子を保つため軍事裁判を続け、
同年2月11日、第二回軍事裁判で、被告ラヒード憲兵少佐に暴行罪7年の刑を下す。

翌日、ネタジー・ボースの故郷、カルカッタの抗議デモがゼネストとなり、
それが全国的な民衆暴動と広がる。

同2月18日、ボンベイの海軍基地でイギリス海軍軍艦でインド人乗組み将校が反乱を起こし、
軍艦の大砲に実弾を装てんし、イギリス軍の命令を拒否。

カラチ、カルカッタの軍港にも飛び火し、市民暴動の様相を呈する。

同2月22日、市民の暴動、イギリス軍が出動し、各地で市街戦となる。

同2月23日、ボンベイ港の軍艦のユニオンジャックが降ろされ、
インド独立三色旗とイスラム連盟の旗が掲げられる。

陸軍インド兵に出動命令が出るが、インド兵は英軍上官の発砲命令を拒否、
国民議会派パテルとネルー、イスラム連盟のジンナーの仲介で反乱は治まる。

イギリス軍は、警察、軍隊の統率力を失う。

同5月、英国は軍事裁判の中止を宣言。

同8月、新憲法制定会議開催、暫定政府発足。

1947年2月、アトリー首相インド撤退を発表。

1947年8月15日、英国はインド独立令を発し、インド独立する。

インドでは、ガンジーはマハトマ(聖者)、ネールはバンディット(学者)、
そしてボースはネタジー(指導者)と呼ばれている。

インド国会議事堂正面の壁には、右にガンジー、左にネール、
真ん中にボースの肖像画が飾っている。

「インド独立の為に、日本人が共に血を流してくれたことを忘れません」

最高裁弁護士ラケッシュ・デヴィーディ氏

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