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太 陽の光がこの地上を照すかぎり、
  月の光がこの大地を潤すかぎり・夜空に星ガ輝くかぎり、 
   インド国民は日本国民への恩は決して忘れない。
                     
               P・N・Lekhi(インド最高裁弁護士)

初めは、この文章を見た時、意味が判らなかった。

なんと大げさな、と思った。

そのうち、日本がインド独立を助けたという話を聞いた。

インパール作戦が無かったら、そしてチャンドラ・ボースがいなかったら、
インドの独立は無かったという。

戦死3万をだして、大東亜戦争中 もっとも愚かな作戦と言われたインパール作戦、
ところが、このインパール作戦なくしてインドの独立が無かったというのだ。

そして、このインパール作戦にチャンドラ・ボースはインド国民軍 INA を率いて日本軍とともに戦ったのである。

チャンドラ・ボースについて

スバス・チャンドラボースは、1897年、明治30年、ベンガル州の富裕な家に生まれ、英国のケンブリッジ大学に学び、最難関といわれたインド高等文官試験に合格しカルカッタ市主席行政官になるが、大英帝国に奉仕する事を潔しとせず、革命運動の嫌疑で逮捕され、獄中より上院議員に立候補し当選、ガンジーの率いる国民会議派に参加し、国民議会議長を二度務める。

ヨーロッパで第二次大戦が勃発した時、チャンドラ・ボースはガンジーに対し

「欧州で第二次大戦が始まった今がチャンスです。あなたが大号令をかければインドの青年は立ち上がります」と言うと、ガンジーは、「時期的にもまだ早いし、道徳的にも不適当だ。君が良心にかけて、今が最善の時だと信じるのなら、君一人でやりたまえ。そして全力を尽くすのだ。もし成功したら、私は真っ先に君に祝福を贈ろう」
といわれ、これを最後にボースはガンジー と袂を別った。

敵の敵は味方だと、チャンドラ・ボースは、イギリスと戦うドイツに助けを求め、ヒトラーに会ったが
『インドが独立するのは150年早い』と、すげない返事。

ボースは、ヒトラーが人種差別主義者である事を知らなかった。

その後、日本が米英に宣戦布告、昭和17年2月15日、シンガポール陥落、英連邦軍降伏。

日本軍は、マレー半島に於いて、藤原岩市少佐の対インド工作班「F機関(Freedom,Friendship,FujiwaraでF機関と名づける)」の援助の下、
 「ともにインド独立のために立ち上がろう、この戦争はアジア解放の戦いだ」
という呼びかけに、多くのインド兵が投降し、解放された英軍インド人捕虜によるインド独立連盟がシンガポールに出来る。

700人に膨れ上がったインド人捕虜と「F機関」の合同会食が行われた。

インド兵好みの舌が焦げるようなカレー料理の手作りの品々を並べ、花が飾られ、にわか集めの楽器で怪しげなインド音楽が奏でられ、兵たちははしゃぎにはしゃいだ。

何気なく催したこの計画は、インド人将兵の間に深甚な感動を呼んだ。

戦勝軍の日本軍参謀が、投降したばかりの敗残のインド兵捕虜、それも下士官・兵まで加えて、同じ食卓でインド料理の会食をするなどという事は、英軍の中では夢想だにも出来なかった事である。

英軍の中では、イギリス人将校がインド人将校と共に食事をする事さえなかった。

将校集会所で時にインド料理が欲しいと要求しても、それさえ拒否された。

然るに藤原少尉の、この勝者敗者を超えた、民族の相違を超えた暖かい催しこそは、インド将兵一同の感激であり、日本のインドに対する心情の千万言にも勝る実証である』


 インド独立連盟の隊長モハシン大尉は、そういって涙ぐみながら藤原少佐の手を痛いほど握り締めた。    ( 田中正明『アジア独立への道』p313)

一方、遥かヨーロッパのドイツでは、ボースは、独立運動の団体を結成し、短波放送局を作り本国に放送を続けますが、埒が明かず。「ドイツ が駄目なら、せめて日本に行き、一兵卒としてでも英国と戦いたい」
としてドイツの日本大使 館を通して日本に援助を依頼。

かたや、東洋でも、日本亡命中のビハリ・ボース(別名「中村屋のボース」、チャンドラ・ボースとは別人。大正4年インドで革命闘争を起こすが弾圧されて英国より指名手配され、日本へ亡命。

頭山満、犬養毅らがかくまう)が、昭和 17年、東京の山王ホテルで『インド独立連盟』を立ちあげ、チャンドラ・ボース を日本に呼ぶように日本政府に運動する。

昭和18年始め、ボースは日本まで送って欲しいとドイツ政府に頼むが、戦況が悪化し、飛行機で送る事が出来ない。船も危険である。潜水艦でアフリカのマダガスカルまで送るのが精一杯、と言う

日本政府はボースを迎えるため潜水艦を送り、4月27日、ケープタウン名物の季節風で荒れるマダガスカル沖にて、ボースをドイツの潜水艦から日本の潜水艦に迎える。

東京に着いたボースは日本国民にラジオ演説をする。

「日本の皆様、今から40年前、私がようやく小学校に通い始めた頃、一東洋民族である日本国が世界の超大国ロシアと戦い、これを大敗させました。

このニュースが全インドに伝わり、興奮の波がインドを覆いました。

田舎の小さな村々までも、旅順攻略や奉天会戦、日本海海戦の勇壮な話で持ち切りでした。

私たちインドの子供たちは、東郷元帥や乃木大将を敬愛し尊敬しました。

元帥や大将の写真を手に入れようとしましたが、それが出来ず、その代わりに市場から日本の品物を買ってきて、日本のシンボルとして家に飾りました。

その間、インドの革命家たちは、なぜ日本が超大国を倒すことが出来たのか、日本を訪問して研究し始めました。

また、日本から岡倉天心のような先覚者がインドを訪れ、全アジアを救うべき精神を説きました。実に岡倉天心こそ『アジアは1つ』と断言した大先輩です」


この後、東条首相と面会したボースは、

『インド独立のため日本は無条件で援助してくれますか?政治的なヒモが付かない事を確約してくれますか?』といい、東条首相は、ボースが完全に満足する約束を与えた。

すかさずボースは畳み掛ける。

『日本軍はインドまで作戦を進めてくれますか?』

東条首相は、たじたじとなり、『出来るだけの事はしたいが、確約は出来ない』と返事する。

昭和18年9月、ビルマに隣接する英領インドのベンガル地方、ここはチャンドラ・ボースの故郷でもあるが、ここで食料不足により大飢饉が起こり、死者は、インド政府の調査発表で百五十万人、カルカッタ大学の推定で三百五十万人に達した、といわれる。


当時の新聞記事によると、『カルカッタ市内は身の毛のよだつような惨状を呈し、数千のインド人は食を求めカルカッタ市内になだれ込み、昼夜の別なく街頭に行き倒れとなっている』

英国は、原因を全て非能率的な自治機構やインド人悪徳商人のせいにして、数百万の死者の発生を拱手傍観、何の手も打たなかった。


また米国も、現地からの詳細な情報を持ち、飢饉の深刻化した八月末、カルカッタ市長から緊急要請の電報を受け取りながら『これは英国の問題である』として無視した。

 ビルマのバ・モウ首相はベンガル飢饉について、

『膨大なる米英軍及び重慶軍(蒋介石の国民軍)を賄うための食糧徴発を実施し、インド民衆の受ける過酷な境遇に対しては、何らの対策を講ずるところが無い。

英国兵は不自由も無く毎日四回の美食を摂り、彼達の弄ぶ犬猫は丸々と太っているが、インド民衆は飢餓のために死線を彷徨う哀れな状態である。

平然として植民地住民を百万の単位で餓死させる英国こそが歴史的な最大の敵である』

と、英米非難の声明を発し、ビルマはインド国民軍と共にインド民衆に米を届ける用意があると声明を発表し、ラジオ放送を繰り返した。

昭和18年10月21日、ボースはシンガポールに於いて、日本軍援助の下、捕虜になっていた英軍インド兵を集めてられて作られたインド国民軍INSを元に(この時点で兵士1万2000名に増加)自由インド仮政府を設立し、独立宣言をする。

シンガポール市庁舎前の広場に於けるインド国民軍の閲兵式における演説。

『今日は、私の生涯を通じて最も誇りとする日である、
インド国民軍の結成を世界に宣言するべき栄光と特権を
授けられたことに対し神に感謝する

英国の漆黒からインドを開放するための、
我々が初めて持つ、自分たちの軍隊である

現在、私が諸君に進呈するものは、
飢餓、欠乏、
進軍に次ぐ進軍、
そして、死以外の何ものでもない、
しかし、もし諸君が生死を託して私に従うなら、
私は必ず諸君を勝利と自由に導く。

私は諸君に、固く誓う
暗黒にも光明にも、
悲しみにも喜びにも、
受難にも勝利にも、
常に諸君と共にある事を

我々のうちの何人が生きて自由インドを見るかは問題ではない。
インドを自由にする為に、我々が全てを捧げる事、
それだけで十分である

我々はこれよりデリーに向かって進軍する
チェロ・デリー(征け、デリーへ)
チェロ・デリー(征け、デリーへ)」

それは熱風のごとき感動の嵐であった。

インド国民軍はもちろん
会場に集まった二万人のインド人、日本人、マレー人を押し包んだ。

チャンドラ・ボースは、これ以来『ネタジー(指導者)』と呼ばれる

自由インド仮政府には領土がなかったので、日本政府は、占領していた旧英領アンダマン諸島とニコバル諸島をインド臨時政府に委譲する。


これで自由インド仮政府は軍隊を持ち、独立国家として国際法の条件である領土を持つ事になる
日本国政府は、10月23日、自由インド仮政府を承認し、インド仮政府は英米両国に対し、宣戦を布告した。

なお、同年8月1日にはビルマが独立している。


また、2ヵ月後の10月14日にはフィリピンが独立している。


 昭和18年11月6日、東条首相の発案で、東京の国会議事堂において大東亜会議が開かれ、南京国民政府の汪兆銘、タイのワンワイタヤコーン殿下、ビルマのバ・モウ首相、フィリピンのラウレル大統領、満州国の張景恵総理が集まり、チャンドラ・ボースもオブザーバーとして参加する

ビルマ、バ・モウ首相の演説

「今より20年前に、ビルマに起こった全国的規模の英国に対する叛乱の際に、ビルマの村々は英軍の指示により焼き払われ、婦女子は虐殺され、志士は投獄され、あるいは絞殺され、追放された。

我々多くのものが長い間彷徨い、救いを求めて与えられなかった曠野から我々を救い出してくれたのは、東洋の指導者日本であります」

ボースの演説
「今、われわれは、日本という無敵の友と各代表の支持を得て、
解放の日の近き事を確信して、戦場に赴かんとするものであります。

インドに関するかぎり、
我々の運命は、日本及びその盟邦の今次大戦における運命と一体であります。

個人の生死は問題ではありません。

生き延びてインドの解放を目撃できるか否かなどは私の意に介するところではありません。

唯一の関心事はインドが英米から解放されるという事実でです。

イギリスとアメリカの帝国主義がインドがら駆逐されるという事実です。

大東亜共栄圏の建設は、全アジア民族、全人類の重大関心事であり、世界連盟への道であります。

そして強奪者の連盟に非ずして、新な国家共同体への道を開くものであります。

本日、満場一致で採決された『大東亜共同宣言』が全世界の抑圧された諸国民の憲章たらん事を祈ります。

願わくば、この宣言をして、一九四三年以後の新憲章として、世界史上にその正しさを証明されんことを」



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