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フィリピン
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ホセ・ラウエル大統領の言葉


「かねてから予見しているように日本が負け、
フィリピンが再び米国の制圧下に入ったとしても、
この戦争の影響は必ず子孫に及び、
アジア人のアジア人たる思想は受け継がれてゆくだろう。」



ホセ・ラウエル氏の言葉(大統領・元駐日大使)

「考えてみれば、フィリピンの独立に対して、もっとも熱意のある者ほど苦労しました。

熱意を持たない者は楽をして、しかもいい生活をしています。

苦労したものの典型がリカルテ将軍です。

私もリカルテ将軍にあやかって、日本とフィリピンの橋渡しになるべく、戦前の南方特別留学生のみならず、戦後の日本留学生の世話もよく行いました。

それで思うのですが、戦前の日本人の方がよかったのではないか。

留学生にも親切で、親しく付き合ってくれました。

しかし、現代の日本人は、フィリピンの留学生がアパートに住んでいても、隣室から声も掛けてくれず誰も知らぬ顔をしています。

親切に手を差し伸べてくれる日本人はいません。

人情が薄くなった日本のように思えるのですが。」








フィリピンの反日感情


ホセ・ラウエル元駐日大使(戦争中のフィリピン大統領ホセ・P・ラウエル氏の次男)の言

「日本は等質の国ですからね。

反日とか親日とかで割り切れるかも知れませんが、フィリピンは島の数でも七百からあって、
いちがいに断定できませんよ。

フィリピンには反米の人もいるし、親日派もいる。

それに民族独立派もおります。

また宗教や人種、都市と農村、それに貧富の差もあって、世間調査といってもあまり当てになりません。

私は総体的にみて、フィリピンの親日感情は強いと見ています。

新聞論調がマニラ市内で判断するのではなく、田舎をまわってみられたらそれがよくわかりますよ。」

「ケンペイタイもだんだん風化してきました。

若い人々にはピンとこなくなりました。

戦争については、フィリピン人より日本人の方がむしろ神経過敏ですよ。

植民地化されたことのない日本人には理解できないかも知れませんが、フィリピンは過去三百年にわたってスペインの植民地になり、続いて五十年近くアメリカの植民地が続きました。

日本の軍政といっても、わずか四年足らずです。

過去を掘り起こしだしたら、スペインやアメリカの弾圧や虐殺、欺瞞はもっと巧妙で悪質でした。」



「アギナルド将軍と黄金造りの日本刀」


「皇太子殿下ご夫妻(今上・皇后両陛下)は訪比二日目の六日(昭和37年11月)昼、
キャビテ州カワイトー村で「比国独立運動の父」アギナルド将軍(第一代フィリピン共和国大統領
1869−1964)にお会いになった。

将軍がフィリピンの独立をはかって明治二十九年から六年間、当時の米軍に捕らわれるまで、反乱軍を指揮、スペインや米軍と戦ってきた。

そのとき、日本に援助を求めたことから、将軍と日本の関係が結ばれた。

ご夫妻がたずねられると、九十三歳の老将軍は、足が不自由のため手押し車につかまってやっと立ち上がり、ご夫妻と握手。

ほとんど目の見えない将軍が、皇太子殿下の「将軍に会えてうれしい」とのおことばに「日本の国はありがたい国だ。

ご夫妻にぜひお会いしたかった。

この機会がくるのを待っていた。

わたしが反乱を起こしたとき、反乱軍が弱く心細かった。

そのとき日本の天皇からという日本刀が届いて、元気づけられ、独立のため戦い続けることが出来た」と答えた。

また、将軍は「そのときの天皇はだれでしたか」と質問、殿下は「それは曽祖父に当る明治天皇です」とお答えになるなど、なごやかに訳三十分歓談され、皇太子殿下からは将軍に天皇陛下のお写真とご夫妻の写真を贈られた。」

    (昭和37年11月7日付  「東京新聞」朝刊)




ニック・ホアキン氏の言葉


「ラウエルやアキノのような人物は、勝ち目がないと知っても、民族主義者の伝統に基づく「いくつかの目標を達成」しようと努力した。

これに対し、日本人と戦ったものは、必ずしも自由のために戦ったとは言えない。

(日本への)抵抗は主として植民地の地位に復帰するための努力であり、「解放」のための戦争ではなかった」

    (「アキノ家三代ーフィリピン民族主義の系譜(上・下巻)」





ホアキン氏の見解

 ホアキン氏は日本のフィリピン統治がもたらした肯定面として挙げた点

@日本の政策が動機となって、タガログ語が公用語になった。

Aフィリピン本来の姿を求める民族主義的傾向が、戦後になっても復活強化された。

B「ヤンキー・ゴー・ホーム、アジアに還れ」というメッセージが、社会運動やゲリラ活動となって戦後も広がるようになった。





アキノ三代、親日家系


フィリピンと大東亜戦争

@大東亜戦争は五百年とか千年とかの永い時間単位で見るべきである。

人類史的規模の大戦争だからである。

戦争のある時点の断面ととって、フィリピンの風俗・習慣に馴れぬ日本兵が不作法だったとか、
日本軍が生活物資を現地調達するので、フィリピン国民の生活が窮乏を来たしたとか、
敗戦色が濃厚になってからは日本兵の軍紀が乱れて残虐になったとか、
そんな局所的現象にのみレンズを当てて云々するのは、公正な戦争批判だとは言えない。

とは言っても、今のフィリピンは貧乏のドン底だから、日米などの大国が悪く言われても致し方ない。

将来、日・米・欧のように経済水準が高くなったら、正しく評価してくれるのではないかと儚い期待を持っている。


最近、マニラで「フィリピン戦線の日本兵」と言う本がバカ売れしている。

この本には、戦争中の日本兵が行った善い事ばかりを書き集め、「草の根証言集」という
副題がついている。

著者は親日家のアルフォンソ・P・サントスだ。

かつての日本軍を悪し様にいう風潮がいまだに残っているのに対し、一矢を報いたい。

アキノ時代になって、膨大な日本の援助が出たので、フィリピンではもっと広く、もっと深く、
日本人像を見直すべきだというムードが出ている。

Aラウエル一家が父子二代にわたって親日的だというが、そのラウエル元駐日大使の弟さんが
アキノ政権の副大統領となっている。

アキノ家は三代にわたって親日の家風を保っている。

初代はアギナルト将軍に従ってスペイン軍と戦った革命家だ。

この戦争で敵軍に捕らえられ、軍法会議で死刑の宣告を受けたが、アギナルド将軍が
独立戦争の放棄をスペイン軍に誓ったので、アキノ少佐は助かった。

その後、アキナルド将軍に従って、今度は米軍と戦ったが捕えられ、無実の罪で死刑の判決を受け、無実が晴れてまたも命拾いしたがそれ以降、米嫌いになり、一人息子を日本に留学させた。

二代目は1943年、日本軍の後援で発足した新生フィリピンの国会議長である。

泰然たる人物であった。

敗戦後、東京に送られて巣鴨拘置所に抑留されたが、毅然たる態度で、祖国独立の信念を貫く父の姿を見て、三代目のニノイ・アキノは痛く尊敬した。


三代目のアキノのお母さんのオーロラ夫人はこの議長の奥さんである。


今や七十歳を越えるおばあちゃんだが、日本の皇后陛下と誕生日が同じ(3月6日)だというのが誇りである。

ニノイ・アキノの親日精神は祖父と祖母と親譲りなのだ。


B首都マニラは、16世紀以来スペイン化され、19世紀以来アメリカ化されて、フィリピン本来の個性を失っている。

知識階層の高い人ほど、本来の個性を失っているといえる。

戦前から、アメリカ人もスペイン人もヨーロッパ人全体が日本人を嫌っている。

嫌うというよりもこわがっているのである。

賢くて強い日本が、アジアの植民地諸国に、智恵を貸したり、武力を貸したら、植民地諸国が一斉に独立運動を始めるだろうから、諸国民が日本を嫌うように洗脳したらよいと欧米列強の国は思った。

フィリピン人はアメリカ的教養を持つマスコミ人はこぞって反日的と言える。

アメリカ人やスペイン人の混血フィリピン人は反日精神構造になりやすい。

しかし、その逆も言える。

アメリカやスペインの混血の少ない、首都から遠隔地、ルソン島では、北端のイロコスノルテ州や南方のミンダナオ島、及び付近の島々は親日的な精神構造を持つ住民が多い。

どんな村に行っても「私は日本人です」と言えば大切にされる。











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