英霊の言の葉
穴沢 利夫命    福島県 中央大学 特操一期 第20振武隊 
              昭和20年4月12日出撃 戦死 少尉 23歳

婚約者智恵子さんへの遺書

「二人で力を合わせて努めて来たが終に実を結ばずに終わった。

希望も持ちながらも心の一隅であんなにも恐れていた‘時期を失する‘ことが実現して了つたのである。

去月十日、楽しみの日を胸に描きながら池袋の駅で別れたが、帰隊直後、我が隊を直接取り巻く状況は急転した。

発信は当分禁止された。

転々と処を変へつゝ多忙の毎日を送った。

そして、今晴れの出撃の日を迎へたのである。

便りを書き度い、書くことはうんとある。

然しそのどれもが今迄のあなたの厚情に御礼を言ふ言葉以外の何物でもないことを知る。

あなたの御両親様、兄様、姉様、妹様、弟様、みんないい人でした。

至らぬ自分にかけて下さった御親切、全く月並の御礼の言葉では済み切れぬけれど
「ありがたうございました」と最後の純一なる心底から言っておきます。

今は徒に過去に於ける長い交際のあとをだどりたくない。

問題は今後にあるのだから。

常に正しい判断をあなたの頭脳が与へて進ませてくれることゝ信ずる。

然しそれとは別個に、婚約してあった男性として、散ってゆく男子として、女性であるあなたに少し言って往きたい。

「あなたの幸を希ふ以外に何物もない。

徒に過去の小義に拘る勿れ。

あなたは過去に生きるのではない。

勇気をもつて過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと。

あなたは今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。

穴沢は現実の世界にはもう存在しない。

極めて抽象的に流れたかも知れぬが、将来生起する具体的な場面々々に活かしてくれる様、
自分勝手な一方的な言葉ではないつもりである。

当地は既に桜も散り果てた。

大好きな嫩葉の候が何処へは直に訪れることだらう。

今更何を言ふかと自分でも考へるが、ちょっぴり欲を言って見たい。

1、読みたい本   「万葉」「句集」「道程」「一点鐘」「故郷」

2、観たい画     ラファエル「聖母子像」芳崖「慈母観音」

3、智恵子。会ひたい、話したい、無性に。今後は明るく朗らかに。

自分も負けずに朗らかに笑って往く。

昭和20.4.12  

智恵子様






荒木春雄命 
       神奈川県 陸士五十七期  五十一振武隊
                昭和20年5月11日出撃戦死  少尉  21歳


新婚一ヶ月の奥様に宛てた遺書

「志げ子、元気なりや。

あれから一ヶ月経つた。

楽しき夢は過ぎ去って明日は敵艦に殴り込みヤンキー道連れ三途川を渡る。

ふるかえへれば、俺は随分、お前に邪険だった。

邪険にしながら、後で後悔するのが癖だった。

許して御呉れ。

お前の行先、長き一生を考へると断腸の想ひがする。

どうか、心堅固に多幸にしてくれ。

俺の亡き後、俺に代わって父上に尽くしてくれ。

   「 悠久の大儀に生きて此の国を

    永く護らん魂の敵より 」

しげ子殿







石切山文一命     静岡県 少候24四期 第103振武隊
               昭和20年4月12日出撃戦死  少尉  26歳


遺書

「父母上様愈々明12日15時征途に上る事になりました。

今日迄の御恩に報ゆるべき誠心の肉弾となって、今夜は若き部下と共に
心おきなく最后の夢を結びます。

父母上様に捧ぐ最后の言葉とします。

撃沈






斉藤幸雄命        宮城県  神風特別攻撃隊第6神剣隊
                昭和20年5月11日沖縄方面にて特攻戦死  少尉 20歳

絶筆

「何も思いひ残すことはありません。

ただ、万歳あるのみです。

お母さん、きつと桜咲く靖國神社に来て下さいね。

いつまでも、元気でいて下さい。」







高野文夫命        新潟県  陸軍少尉 
                昭和19年7月6日  ニューギニアにて戦死  21歳

「私もたうたう男一匹として大東亜戦争に参加出来、只今護国の神として桜の花も美しき
九段の靖國に参る事が出来ました。・・・・・・・・・・

しかし、僕一人先立ち、後にお残りになった御父母様には、まことに御気の毒に思ひます。

・・・・・・・・・・・・・・・・

たしかに私は御父母様より先に此の身を滅ぼしました。
しかし、それで私の一切が終わりを告げたのではありません。

私は今ちやんと護國の御社にとこしへに生きて居ります。

どうぞ元気を出して、辛くはありませうが、現世の荒波を乗り切つて下さい。

最後の最後まで頑張り抜いて下さい。

御父様、御母様の後には常に僕が居ります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私は何の思ひ残すことなく心ゆくまで戦って、
天皇陛下の弥栄を念じつゝゝ目を閉じることを得ました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今までは私が時々帰省して楽しくお話をし、食事としていました。

今度はどうか御両親様も靖國の社頭に来て下さいませ。

そして、又あの時のやうに、楽しくお話をし、楽しく食事をしやうではありませんか。

私は文章が下手な上に、字も非常に拙いので、さぞ辛かったことでせう。

それでも私は真心をもつて綴り、又書いていたのでございます。

どうぞ笑はないで下さい。

                                         丈夫より


御両親様へ







志水正義命              熊本県 陸軍兵長
                      昭和20年6月30日 レイテ島にて戦死 35歳


「政子その後元気ですか。

私も至極元気にて戦地に向かひます。

男子の本懐これにすぎざるは無し。

海上無事に行き着いたれば希も半分は達し得たのだ。

戦地は覚悟の前、病気で倒れるのは残念に思ふから充分身体には注意し、花々しい戦地を希んでいる。

地球上に生を得て、一度は死なねばならぬお互だ。

御国の為に戦死致し、神として靖國神社に祭られ同胞より拝しられるとはなんたる幸福であらう。

お前の名誉とも思ふ。

しかし其の反面には、いゝ知れぬ淋しさ、悲しさがあると深く信じ切っている。

これも定まった運命なのだ。

人間の力では如何とも出来ないのだ。

願わくは志水政子となつた以上、可愛い子供の養育に務め成長するのを楽しみに志水家を立派に立てゝくれる様に願ひたい。

淋しいから又再婚すると申せば俺は何ともいはず九段の花の下よりお前の幸福を祈っている。

然し子供の事は末々まで幸福で暮す様願ひたい。

一人の子供は台湾の兄様に貰ってもらひなさい。

この度の子供が男の子であればと何時も願つている。

御両親様のことはくれぐれもよろしく頼む。

お前も充分身体に気をつけて元気にで暮らしなさい。

ではこれにてお別れ致します。


                                         志水正義

  政子殿








保田武命                静岡県 歩兵34聯隊 陸軍歩兵曹長
                        昭和13年7月22日 中支・安き省宣県
                        双渓橋付近にて戦死   33歳



和子よ、父は君國のため喜んで戦場の露と消えました。

父は笑って死にました。

父がこの世に残す思ひは、唯々お前のことだけなのですよ。

父なき後は、母の教へに従ひ、立派な女性となり、若くしてその夫と失へる不幸な母を、幸福にして上げなければいけません。

父肉体はすでに無く、父の顔は永遠に見られぬけれど、父の霊魂が九段坂の上から、いつまでも
いつまでもお前とお前の母の幸福を祈つて守つてをります。

お前の三歳の姿を、私の魂は抱き続けています。

再びいふ、母の訓へに従ひてよき女性となり、幸うすかり汝の母への孝養を、汝の任務と知れ。

                                                父

和子チャン

   (徐州会戦にのぞまんとする時わが幼き児へ)








富澤幸光命          北海道  神風突撃隊第19金剛隊 海軍少佐
                  昭和20年1月6日 比島にて戦死  23歳

「絶筆」

「お父上様、益々御達者でお暮らしのことと存じます。

幸光は闘魂いよいよ元気旺盛でまた出撃します。

お正月も来ました。

幸光は靖國で24歳を迎へる事にしました。

靖國神社の餅は大きいですからね。

同封の写真は○○で猛訓練時、下中尉に写して戴いたのです。

眼光を見て下さい。

この拳を見て下さい。

父様、母様は日本一の父様母様であることを信じています。

お正月になつたら軍服の前に沢山御馳走をあげて下さい。

雑煮餅が一番好きです。

ストーブを囲んで幸光の想ひ出話をするのも間近でせう。

靖國神社ではまた甲板仕官でもして大いに張り切る心算です。

母上様、幸光の戦死の報を知つても決して泣いてはなりません。

靖國で待っています。

きつと来て下さるでせうね。

本日恩賜のお酒を戴き感激の極みです。

敵がすぐ前に来ました。

私がやらねば父様母様が死んでしまふ。

否日本国が大変なことになる。

幸光が誰にも負けずきつとやります。(後略)








鈴木三郎命       愛知県 野戦照空第二大隊  陸軍伍長
               昭和20年6月2日 フィリピン、ネパビスカヤ州アリタオ島にて戦死



チヅ子、オマヘの父ハ、イマ、ヤスクニジンジヤデ、チヅ子ノゲンキナスガタヲミテヨロコンデイル。

シッカリベンキヤウシテ、オトウサンヲ、ヨロコバセテクダサイ。

オトウサンニアイタクバ、ヤスクニジンジヤヘキナサイ。

 昭和18年7月29日






大橋治男命             岐阜県 下士官学生昭和13年第23振武隊
                     昭和20年4月1日出撃戦死  曹長  26歳


「遺書」

「父上様

永い間大変お世話になりました。

想ひ出は何時までも尽きません。

二十八年間、短い様でもあり永いようでもあり唯々糸まりの如し。

決戦本土に及ぶ今日、一億総突撃、総員特攻員です。

其の先鋒を往く。

嗚呼快なり。

されど唯犬死を恐る。

父上様、米鬼の奴、憎みても余りあり。

東京、名古屋、大阪と相次暴挙。

この仇はきつときつと。

私たち、私も其の一員として立派に働く覚悟です。

綾子も覚悟をして来たものなれど女の事、何分よろしくお願ひ申し上げます。

一度二人で行きたいもの、常々申して居りましたが、これは実現できませんでした。

私も残念ですが、綾子は私以上だと思ひます。

弟妹も皆心合わせて励まし合ってくれるだらうと思ひます。

父上様に替り、次で弟妹の面倒を見る事も出来ず残念です。

春夏秋冬、益々ご健康に留意せられて公務のため御奮闘下さる様お祈り申上ます。

現下の情勢、配給の御苦心御察し申上ます。

時世に彼岸中日、やがて桜花も咲き散らん。

隣り近所の皆々様によろしくお伝へ置き願ひます。

  昭和二十年三月二十一日 

                                                 治男


御父上様














  



  
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