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2009.2.18改訂

 

 

「南京大虐殺」を知るための抜き書き集

 

水上 紘一

 

 

目   次

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はじめに                                                          ------------------------ 4

1. 予備知識                                                     ------------------------ 5

  ・いわゆる南京大虐殺とは?

  ・「虐殺」の意味

  ・ハーグ陸戦法規が定める戦闘員の資格四条件

  ・便衣兵

    便衣兵は重罪犯,便衣兵が武器を捨てても無罪放免にはならない

  ・南京事件に至る経緯

  ・南京の地勢

    南京の広さ

  ・安全区と国際委員会

    安全区,国際委員会,国際委員会の構成員

  ・第三国人は大虐殺を見たのか?

    国際委員会が抗議した日本軍の非行,ラーベ委員長からの感謝状,東京裁判におけるマギー牧師の証言とブルックス弁護人の訊問,ベイツ教授の事件当時の談話と東京裁判での証言,第三国人のだれ一人として大虐殺を見ていない

  ・「南京大虐殺」が消滅しない不思議

2. 上海事変および南京攻略戦の実相          ----------------------- 8

  ・盧溝橋事件から通州事件へ

  ・第二次上海事変

  ・上海の戦いから南京攻略戦が終わるまでの犠牲者数

  ・「広大な大陸を武器とせよ」というドイツ軍事顧問団の蒋介石への助言

  ・上海から南京への進撃

  ・虐殺や女性暴行をする動機も時間もまったくない急行軍

  ・住民の姿はなかった

  ・漆黒の闇の中で

3. 南京陥落の前後                                        ----------------------- 10

  ・降伏勧告を拒絶し、南京死守を宣言しながら、逃亡した蒋介石

  ・逃亡した南京防衛軍司令官の唐生智

  ・脱出しようとした中国軍兵士の不運

  ・軍服を脱ぎ民衆の中に紛れ込んだ中国兵(便衣兵)

    [補足1](便衣兵の目撃証言と状況証拠)

    [補足2](日本軍の攻撃より前に無法状態になった南京)

  ・南京城外での追撃戦と城内での掃討戦

  ・二万人の中国兵に包囲された百六十人の中隊

    [参考1](この戦闘から二万八七三〇人虐殺という大ウソが生まれた)

    [参考2](虐殺の証拠とされている有名な写真の漂着死体と土手の死体について)

  ・中国軍の焦土作戦と南京市街での放火

  ・市民と兵士を区別する責務を怠った国際委員会

  ・反抗的な数千人の兵士を処刑

  ・反抗的でない市民が間違って処刑された可能性はきわめて低い

  ・住民登録を行って「安居之証」を発行した日本軍

    [補足](「安居之証」の発行部数‥‥南京陥落前後の人口増減が判る資料として)

  ・日本軍に救いを求めた住民

4. 南京裁判と東京裁判の判決                    ----------------------- 14

  ・東京裁判で松井大将と広田外相に死刑

  ・南京で処刑された谷寿夫第六師団長,田中軍吉大尉,野田毅少尉,向井敏明少尉

    [参考1](谷寿夫中将の申弁書の序文から)

    [参考2](中国では854人のBC級戦犯が裁かれ、149人が死刑に処された)

    [補足1](四万人虐殺説)

    [補足2](三十万人虐殺説‥‥南京裁判)

      [追補1](崇善堂は知らない―大西大尉の証言1)

      [追補2](明らかになった崇善堂の正体)

    [補足3](十万人虐殺説‥‥東京裁判

      [追補](五万七千四百十八人の虐殺を目撃したという証言を採用した東京裁判)

  ・A級戦犯として起訴され,B級戦犯として処刑された松井石根大将

    [参考](松井大将の潔癖さが誤解を招いた)

  ・3人の尉官が問われた罪

  ・田中軍吉大尉の「三百人斬り」について

  ・「百人斬り競争」という戦意高揚記事の犠牲になった野田毅少尉と向井敏明少尉

  ・戦意高揚の武勇伝が殺人競争に脚色される過程

  ・南京裁判で持ち出されたのは、『戦争とは何か』の漢訳版『日軍暴行紀実』

  ・「大虐殺の明白な証拠」とされた「百人斬り競争」

  ・「百人斬り競争」などあったはずがない

    [向井敏明少尉の遺書](辞世

    [野田毅少尉の遺書](死刑に臨みて)

  ・記事を書いた浅海記者は創作であるとは証言しなかった

  ・「百人斬り競争」を提案したのは記者(野田少尉の第二上訴申弁書による)

  ・「二人の名前を貸してあげませうか」(野田少尉の第二上訴申弁書による)

  ・平成1年、毎日新聞が「百人斬りは事実無根」と認めた

5. 「百人斬り競争」報道および出版に対する訴訟 --------------------- 21

  ・遺族が敗訴

    一審判決についての朝日新聞の報道,控訴審判決についての朝日新聞の報道,上告審判決についての朝日新聞の報道

  ・朝日新聞の報道の今昔

    [補足](通州での日本人虐殺に似る南京大虐殺)

  ・齟齬が生じたときに新聞社がするべきこと

  ・裁判における毎日新聞社の主張(一審原告側最終弁論から)

    「百人斬り競争の記事は真実である」,「近代裁判で新聞記事を唯一の証拠として判決を下すはずがない」,「百人斬りは捕虜据えもの斬りではない」,「新聞に真実を報道する法的義務はない」

    [補足](毎日新聞が誤報を放置することは不法行為である)

  ・裁判における朝日新聞社と本多記者の対応(一審原告側最終弁論から)

    唯一の提出証拠は私家版の一書,証人申請にも応じず陳述書すら提出しない,根拠として南京城内の捕虜の処刑を持ち出す

  ・一審の不当な訴訟指揮と不条理な判決(控訴審原告側冒頭陳述から)

    [参考](民法は死者に対する名誉毀損を認めない)

  ・控訴審判決は南京裁判を追認した

  ・裁判所の苦しい理由付け

  ・現状を是正するのは政治家の務めではないか

  ・検証の原点が見落とされていた!

    野田少尉は「記者には一度しか会っていない」と主張,報道記事の内容と両少尉がいた戦場の実態とが未照合

  ・「行ってもいない所で殺人競争はできぬ」―両少尉の足取りを検証せよ

  ・陣中日誌や詳細な地図などが見つかった

  ・両少尉の上訴申弁書の当否が証明できる!

  ・第二報(丹陽にて)と第三報(句容にて)は創作

    十二月九日まで両少尉は離れ離れだった,記事では両少尉は丹陽と句容に入城しているが‥‥,実際には両少尉は丹陽にも句容にも入城しなかった,第二報と第三報は創作である

  ・第四報(紫金山麓にて十二月十二日発)も創作

    第四報記事の要点,十二月九日から十二日は激戦の最中,第四報に掲載された写真の撮影日は十一月二十九日か三十日,掲載写真は第四報が創作であることを証明する

  ・掲載写真がもたらした錯覚

  ・「百人斬り競争」の記事が創作だったという証拠はあった!

  ・野田少尉と記者の再会はすれ違い(野田少尉の第二上訴申弁書による)

  ・そもそも向井少尉は負傷加療中だった

    (野田少尉の第二上訴申弁書の記述)

    (向井少尉の戦友の話)

    (富山大隊長の証言書)

6. 「南京大虐殺」論争                                   --------------------- 30

  虐殺派,まぼろし派,中間派

  ・南京事件が急に話題になりはじめた頃

  ・大虐殺の有無についてのさまざまな見解

  ・論争の端緒

「中国の旅」,ちょっと待て,「戦闘中の百人斬り」を「捕虜の据えもの斬り」に変えた本多勝一氏,日本側からの視点も必要,異様すぎるものにはどこかに無理がある,二重に押された有罪の烙印,なんの躊躇いもなく南京大虐殺を宣伝したNHK,南京大虐殺に対する大きな疑問,残忍な薄笑いを浮かべて首を切り落とす?,血に狂った軍国主義の殺人狂?,まぼろし化した南京大虐殺

  ・中国と台湾の研究書がもたらした新展開

  ・中国で刊行された研究書が述べていること

  ・台湾で刊行された研究書が述べていること

  ・セオドア・ホワイトの回想

  ・南京で虐殺があったと認識していなかった国民党宣伝部

  ・国民党宣伝部(およびティンパーリ)の手口

  ・ベイツの言う四万人の死因

  ・日本人には寝耳に水の話

  ・強姦は見たが、虐殺は見も聞きもしなかった――大西大尉の証言2

  ・南京事件の実態は中国兵の処刑

  ・日本軍の基本方針

  ・戦史に前例のない事態‥‥中国も欧米も沈黙

  ・軍服を脱ぎ潜伏した中国兵の処刑は戦時国際法違反か

  ・日本における「南京事件論争」のハイライト

  ・戦争捕虜の処刑の問題

  ・説明しておくべきだった自らの軍事行動の妥当性

  ・捕虜の護送時の大混乱から悲惨な結果想像を超える事態

千五百人の軍隊が一万人の捕虜を抱えた,捕虜を釈放と聞いて安堵,十倍以上の人数の捕虜を護送することの恐怖,突然大混乱に,悲惨な結果,自衛だった

  ・毎日新聞と朝日ジャーナルの歪曲

  ・捕虜大量射殺事件に関する“if”

  ・長勇大佐の捕虜殺害命令はあったのか?――大西大尉の証言3

  ・三十万人虐殺説を正当化しようとする虐殺派の執念

  ・朝日流論点すり替えの術

    [参考](慰安婦問題における朝日新聞の論点すり替え)

7. 情報戦に負けた日本                                   --------------------- 42

  ・第一次情報戦

    [参考](1938年1月の国際連盟理事会で早くも二万人虐殺を宣伝)

  ・第二次情報戦

  ・第三次情報戦

おわりに                                                            --------------------- 43

参考事項                                                            --------------------- 44

  [1](日本兵と中国兵の違その1)

  [2](日本兵と中国兵の違その2)

  [3](中国は兵匪の国)

  [4](敗残兵の残忍さ)

  [5](支那は国家ではない ― 勝海舟の認識)

  [6](数多くある南京大虐殺

  [7](三光作戦と万人坑)

  [8](日本軍が悪辣であればあるほど、中国には都合がよい

  [9](中国が宣伝する日本軍の残虐行為は中国人の自画像

  10](中国は日本人も日本の歴史も知らない)

  11](中国の教科書の記述例)

  12](中国政府が日本企業の「三光」という商標を不許可)

  13](正確な記録がないのにどんどん増える日中戦争中の中国側犠牲者数)

  14](戦後、中国人が行なってきたこと‥‥虐殺、戦争、革命の輸出)

  15](チベットやウィグルでの大虐殺)

  16](米国でも報道された中国の歪曲歴史教育)

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はじめに

 

 「南京事件とは、昭和十二(一九三七)年、南京で行われた日中の戦いのさいに、六週間にわたって日本軍による虐殺、暴行、強姦、略奪、放火が生じたとの主張であり、今ではこれが、「南京大虐殺」という言葉で語られ、虐殺の犠牲者数として二十万、三十万という数字が世界に流布(るふ)している。」

(東中野修道,小林進,福永慎次郎,南京事件「証拠写真」を検証する,8,草思社,2005

 

 「南京事件」あるいは「南京大虐殺」については多数の書物が刊行されているが,この抜き書き集は主として4冊の書籍から引用して作り上げた.その過程で南京事件の論点が実に多く,しかも難解であることをつくづく思い知らされた.簡潔に解説することは私(水上)の能力を超える.

 複雑にもつれた糸を誰がどのようにほぐしたのか?4冊の本の著者はその貢献者に含まれている.その著者が解明した,あるいは解明に係わった事項については,引用はできるだけその人の著書から選びたいと思った.しかし,それが判然としないこともあり,あるいはある程度判っても私が簡潔にまとめられないこともあった.したがって,以下で,一つの事項について複数の本に類似の記述があり,どちらかを選択して引用する場合には,分かりやすさを優先した.ただし,ある本を読んで引用しようと考えたときに,必ず他の本を参照したというわけではない.

 上記著者の貢献に関する記述の例を紹介しておこう.北村稔氏は「「南京事件」の探究」のなかで,「「南京事件」を確定した重要な証拠資料である二つの著作が、第三者による中立的立場からの著作ではなく国民党の戦時外交戦略のために執筆されていた事実を明らかにしたことが、本書の特色の一つである」と述べている.また,東中野修道編著「1937南京攻略戦の真実」には,「私は五年前の拙著『南京「虐殺」の徹底検証』のなかで、当時の人たちは日本軍が南京で「虐殺」をしたとは誰も言っていなかったし、誰も認めていなかったことを論証している」と書かれている.

 「1937南京攻略戦の真実」は,南京攻略戦に参戦した第6師団の将兵がそれから二年三ヶ月後に戦地の中国大陸で綴った回想を集めて編集された「転戦実話南京編」の再録である.ちなみに,第6師団は南方から南京を攻め,激戦地域だった中華門(南門)などの内外に10日程度の短期間いただけであるが,師団長谷寿夫中将は南京裁判で虐殺の責任を負わされ,刑死した.「「南京事件」日本人48人の証言」は,当時の南京にいた(または入った)軍人,ジャーナリスト,外交官など関係者の体験談を集めたものである.

 残る一書「南京事件証拠写真を検証する」では,展示写真や諸書に載っている写真は南京大虐殺の証拠としては通用しないことを検証している.

 北村氏は日記と研究書から上記の結論を導いたが,東中野氏は台湾で見つけた中国国民党の文書からそれを確認した.(南京事件 国民党極秘文書から読み解く,草思社,20065月)

 

[改訂] この抜き書き集の骨格を形成してから約10ヶ月後の20066月に,鈴木明著「「南京大虐殺」のまぼろし」が復刊された.初版は197212月である.以下には,同書からの引用も含めた.なお,この書は,初版当時に信じられていた「南京大虐殺」は実は確証がなく曖昧模糊とした「まぼろし」のようなものであり,したがって日本人がその実態を実証しなければならないと主張している.南京大虐殺論争の端緒と言うべき本である.後出の「まぼろし派」という言葉は,この書名に由来する.

 南京攻略戦の最中(さなか)に東京日日新聞(現・毎日新聞)が「戦闘中の百人斬り競争」という武勇談を連載した.戦後,南京裁判においてこの記事を根拠として二人の少尉が有罪とされ,C級戦犯として処刑された.1970年代になって,朝日新聞と記者がこの競争を「殺人競争」に変えて報道・出版し,日本軍の残虐性を糾弾した.2003年,遺族はこれらの報道・出版が名誉毀損だとして訴訟を起こした.この裁判は2006年暮に遺族の敗訴で終わった.これを機に,その訴訟について一章を設けることにした.そこには,高裁判決を受けて東中野修道氏が2007年初めに出版した「南京「百人斬り競争」の真実」からの抜き書きも含めた.この本では,裁判では論じられなかった大事な論点が残っていることを指摘し,詳細に検討している.

 裁判の経過は,20074月に出版された稲田朋美著「百人斬り裁判から南京へ」(文春新書)に詳述されている.そこからも引用した.

 

[再改定] 20077月に田中正明著「南京事件の総括」が小学館文庫として復刊された.この本は1987年と2001年に単行本として出版されていた.著者の田中氏は復刊の1年半ほど前に他界していたが,文庫化にあたっては水間政憲氏が大幅に再構成し,最新の知見を編注として加筆している.

 

 なお,この抜き書き集は「大虐殺」説を疑う立場から作られている.

 

1.予備知識

 

 

○ いわゆる南京大虐殺とは?

 昭和十二(一九三七)年十二月中旬,日本軍は南京を攻略した.冒頭に説明したように,南京事件とは,この攻略戦と南京陥落後の六週間にわたって日本軍が虐殺,暴行,強姦,略奪,放火を行ったと主張される事件である.「この虐殺と呼ばれるもの」が今では「南京大虐殺」という言葉で語られ,虐殺の犠牲者数として十万人,二十万,三十万という数字が世界に流布(るふ)している.

 それでは,その様相は具体的にはどのように語られているのであろうか.また,語られていることに疑問はないのだろうか.次の抜き書きを読んで少し考えていただきたい.

 「松井軍司令官の『陣中日誌』にも、十二月二十一日「人民モ既ニ多少宛(ずつ)帰来セルヲ見ル」とある。占領からちょうど一週間、東京裁判その他中国側の証言によると、この一週間が日本軍による虐殺のピークであったという。日本兵は集団をなして、人を見れば射殺し、女を見れば強姦し、掠奪、放火は勝手次第、屍体はいたる所に累々と山をなし、血は川をなし、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵さながらであったという。そのような恐ろしい街に、どうして難民が続々と帰って来るであろうか。」(田中正明,「南京事件」の総括,32,小学館文庫R--14-22007

 

 

○ 「虐殺」の意味

 以下では,軍が武器を持たない民衆や無抵抗の兵士を計画的に殺害することを「虐殺」と呼ぶ.戦争においては,戦闘中の殺人は不当ではなく,虐殺とは呼ばない.ただし,兵士は軍服を着用していなければならない.つまり,戦闘資格を有するのは正規の軍人だけである.また,指揮官が存在しなければ,正規の軍隊と認められない.戦時国際法が認める戦争は正規の軍隊と正規の軍隊が行うもので,軍隊による無差別な殺害や戦闘資格を有しない者の戦闘行為は戦争犯罪とみなされる.

 

 

○ ハーグ陸戦法規が定める戦闘員の資格四条件

@  部下のために責任を負う者がその頭に在ること(指揮官の存在)

A  遠方から認識できる特殊徽章(きしょう)を着けていること(軍服の着用)

B  公然と兵器を携帯すること

C  動作については戦争の法規と慣例を遵守すること

(東中野修道,小林進,福永慎次郎,南京事件「証拠写真」を検証する,46,草思社,2005)(意訳)

 

 

○ 便衣兵

 軍服を着ていない者が兵士を攻撃することは正当化されず,戦時国際法上の保護は受けられない.たとえば,捕虜として遇されるとは限らない.中国軍は戦時国際法にはまったく無頓着で,司令官が逃亡したり,兵士が軍服を脱いで民間人を装い(便衣兵という),日本兵を攻撃した.

 南京事件を論じる際には,便衣兵という言葉は上記の意味で出てくる.しかし,本来は,敵兵を欺くため出撃時から便衣(市民服)を着て戦闘に従事している正規兵を謂うのだそうである.(東中野修道(編著),1937南京攻略戦の真実,156,小学館文庫R--6-12003

[参考] 後出の第二次上海事変は中国軍が日本軍に仕掛けた戦争であるが,最初の射撃を行ったのは便衣兵である.(藤岡信勝,東中野修道,「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究,33,祥伝社,1999

 

(便衣兵は重罪犯)

 便衣兵は戦時重罪犯として死刑もしくは死刑に近い重刑に処せられるのが,戦時国際法が認める一般の慣例である.(田中正明,「南京事件」の総括,154,小学館文庫R--14-22007

 

(便衣兵が武器を捨てても無罪放免にならない)

 「便衣兵は陸戦法規違反である。日本軍はしばしばこの違反行為にたいし警告を発したが、馬耳東風で、中国軍は一向に改めようとしない。このような便衣隊戦術は、常民と兵隊との区別がつかないため、自然罪もない常民に戦渦が及ぶことは目に見えており、そのため陸戦法規はこれを厳禁しているのである。

 中学・高校の歴史教科書には「武器をすてた兵を殺害した」といって、いかにも人道にもとる行為のごとく記述しているが、武器を捨て、常民姿になったからといって、それで無罪放免かというと、戦争とはそんな甘いものではない。今の今まで戦っていた便衣兵が、武器を捨てたからといって、捕虜のあつかいを受け、いのちは助かるかというと、そうはいかない。」

(田中正明,「南京事件」の総括,153-154,小学館文庫R--14-22007

 

 

○ 南京事件に至る経緯

 「昭和十二年七月七日、北京郊外の盧溝橋近辺で夜間演習を行っていた日本軍に突然弾が飛んできた。中国軍によるものだと考えた日本軍はただちに中国軍と話し合いを行った。話し合いが行われたけれど、その一方で小競り合いは続き、そうしているうち、争いはしだいに大きくなり、二十七日には、三個師団が北京方面に派遣されることになった。

 そのころの中国で、最も多くの日本人がいたのは上海である。北京の争いが続くうち、その上海が騒がしくなってきた。上海には日本の工場があり、それら工場と日本人を海軍陸戦隊が守っていた。日がたつにつれ、上海が険悪になってきた。八月九日、海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が射殺された。十三日には、海軍陸戦隊と中国軍が衝突した。中国の兵力は海軍陸戦隊の何倍もあり、在留日本人の生命が危険になってくる。すでに七月二十九日、北京郊外の通州で、二百二十三人の在留邦人が虐殺されるという、いわゆる通州事件が起こっていた。

 そのため、上海派遣軍が編成されて上海に向かうことになった。司令官には、中国通として知られていた松井石根(いわね)大将が親補された。‥(中略)‥。上海派遣軍は八月二十三日から上陸を始めたが、激しい戦いとなった。攻めるのは日本軍だったが、一月たっても、二月たっても、上海を制圧することはできなかった。日ごとに日本軍の戦死者が増えていった。

 中国軍の背後を突くため、十一月五日、新しく編成された第十軍が杭州湾に上陸した。背後から攻められた中国軍は崩れ、潰走(かいそう)を始めた。上陸したての第十軍は、この際、潰走する敵を追って首都南京まで攻めのぼり、そこで和平を考えるべきだという意見を持っていた。それを意見具申するとともに、潰走する敵を追撃しはじめた。やがて、上海を制圧した上海派遣軍からも同様な意見が出された。

 十二月一日、南京攻略の命令が参謀本部からくだった。‥(中略)‥。当初、南京攻略は一月半ばと予想されていたけれど、日本軍の追撃は速く、十二月十日には鯖江の第三十六連隊が光華門に突入、十二月十二日の昼には大分の第四十七連隊がはしごをかけて城壁にのぼりはじめた。

 この日の夜、中国軍には撤退命令が出された。しかし、ほとんどが正面から突破することを命ぜられたため、多くの将兵は軍服を脱ぎ捨て、城内にある難民区(安全区)に逃げ込んだ十二月十三日、城内に進んだ日本軍は中国軍を掃討していった。掃討戦は十六日まで続き、十七日には松井大将を先頭として入場式が行われ、翌日には慰霊祭が行われた。」

(阿羅健一,「南京事件」日本人48人の証言,8-10,小学館文庫R--9-12002

 

 

○ 南京の地勢

 南京は揚子江が蛇行する地点にあり,北と西は揚子江に遮られている.東と南から攻められると,途端に背水の陣になってしまう.南京は高くて幅の広い城壁で囲まれている.周囲には揚子江へ流れ込む小河川があり,湿地帯が多い.

 

(南京の広さ)

 「(南京は)東西五キロ、つまり一番幅広い中山門から漢中門まで歩いて一時間ほどで横切ることができる。南の中華門から最北の?江(ゆうこう)門まで約十一キロ、歩いても二時間半足らずである。総面積は城外の下関(シャーカン)まで加えて約四〇平方キロ。東京都世田谷区が五八・八一平方キロであるから、その五分の四弱の広さである。」

(田中正明,「南京事件」の総括,25,小学館文庫R--14-22007

 

 

○ 安全区と国際委員会

 

(安全区)

 「このような狭い町の一角に(水上註:ほぼ中央に)、三・八平方キロを区切って“安全区”を設け、第三国人からなる国際委員会がここを管理していた。この安全区(難民区)に南京市民全員を収容して保護に当たったのである。」

(田中正明,「南京事件」の総括,25,小学館文庫R--14-22007

 

(国際委員会)

 「国際委員会は安全区を非武装地帯にするよう日本側に申しいれた。最初日本側はこの安全区の設置に同意したが、防衛司令官唐生智が降伏を拒否したため、軍は上海南市におけるジャキーノ・ゾーン(南市非武装地帯)のように、公式にはこれを非武装地帯とも中立地帯とも認めなかった。‥(中略)‥。

 しかし、だからといって、日本軍はこの難民区を保護しなかったわけではない。占領と同時に歩哨を立て、各部隊には進入禁止区域と明示し、無用の者の出入りを禁止し、また松井軍司令官の命令により、砲・爆撃を厳にいましめ、戦禍の波及を防止した。

 そのうえ、救恤(きゅうじゅつ)品を支給するなど手厚く保護している。従ってこの地区には、爆撃も砲撃もなく火災も一回も起きておらず、国際委員会は日本軍のこのような保護に謝意を表しているほどである。」

(田中正明,「南京事件」の総括,138-139,小学館文庫R--14-22007

 

(国際委員会の構成員)

 「戦前から南京に在住していた第三国人は相当多数いたが、最後まで踏みとどまったのは四〇名前後で、そのうちの一五名が委員会を編成し、‥(中略)‥。

 委員長はドイツのシーメンス会社支店長ジョン・HD・ラーベで、書記長は米人の金陵大学社会学教授ルイス・SC・スミス博士(水上註:この抜き書き集ではスマイスという名前でも登場する)。メンバーは、米人七名、英人四名、ドイツ人三名、デンマーク人一名の計一五名である。(金陵大学は民国四四年南京大学と称した。)

 ここで注意したいのは、この一五名の第三国人はいずれも当時の日本の言葉でいう“敵性国人”である。つまり、日本軍を侵略軍と規定してこれを憎み、?介石政府=国民党政府に味方し、これを支援している国の人びとであるということである。ドイツが日独同盟で親日政策を執るようになったのは、一九三八年三月リッペントロップが外相に就任して以降のことで、それまでは米英と同様、日本を敵視し、?介石軍に武器援助と、軍事顧問団を送っていた。」

(田中正明,「南京事件」の総括,135-136,小学館文庫R--14-22007

 

 

○ 第三国人は大虐殺を見たのか?

 

(国際委員会が抗議した日本軍の非行)

 「国際委員会が抗議した四二五件の日本軍非行の中には、非行でも何でもない事件もあり、前述のように伝聞、噂話、憶測が大部分であるが、これらをすべてクロとみて分類すると次のとおりである。殺人 四九件、傷害 四四件、強姦 三六一件、連行 三九〇件、掠奪その他 一七〇件。

 殺人わずか四九件である。大虐殺などどこにも見られないのである。」

(田中正明,「南京事件」の総括,43,小学館文庫R--14-22007

 

(ラーベ委員長からの感謝状)

 「このようにラーベ氏は国際委員会を代表して感謝の手紙をしたためており、マッカラム氏は日本兵の善行を日記の中にしたためている。日本を憎悪していたマギー牧師でさえ「安全区は難民たちの“天国”だったかもしれない」(秦郁彦著『南京事件』,84ページ)といい、スミス博士も調査報告書の中で「難民区内には火災もなく平穏であった」「住民のほとんどはここに集っていた」と述べている。」

(田中正明,「南京事件」の総括,46-47,小学館文庫R--14-22007

 

(東京裁判におけるマギー牧師の証言とブルックス弁護人の訊問)

 「米人マギー牧師は二日間にわたって日本軍の犯罪行為を並べたてたが、ブルックス弁護人の反対訊問にあって、マギー証人が殺人を目撃したのはたった一件、それも占領直後日本兵に誰何(すいか:「だれか」と声をかけ姓名などをたずねること)されて逃げ出した男が射たれるのを見たというのである。

 南京安全区国際委員会のメンバーとして、日本軍の占領期間中、日本軍の行動を監視するため自由行動をとっていた米人牧師が、その目で見た殺害事件は前述の一件、強姦一件、窃盗一件のわずか三件のみで、他は全部伝聞に属するものであったことが暴露されている。」

(田中正明,「南京事件」の総括,231,小学館文庫R--14-22007

 

(ベイツ教授の事件当時の談話と東京裁判での証言)

 「東京日日新聞の若梅、村上両特派員は、占領三日目の十五日、大学の舎宅にベイツ教授を訪れてインタビューをおこなっている。その時教授は、上機嫌で二人を迎え、「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです」といって両記者に握手しているのである(同紙昭12.12.26)。それが東京裁判では、たなごころを返すように、「私ノ家ノ近所ノ路デ、射殺サレタ民間人ノ屍体ガゴロゴロ」していたといい、「城内デ一万二千人ノ男女及ビ子供ガ殺サレタ」と証言しているのである。ここを訪れた若梅、村上両記者もこんな状況は見たといっていない。」

(田中正明,「南京事件」の総括,34-35,小学館文庫R--14-22007

 

(第三国人のだれ一人として大虐殺を見ていない)

 「これはほんの一例にすぎない。当時南京には、日本の行動をこころよく思っていない第三国人が常時監視しており、そのほか揚子江には五隻の米英の艦船が停泊していた。こうした衆人監視の中で南京占領はおこなわれたのである。

 しかもこれら四〇名以上の第三国人のうちだれ一人として、何万はおろか、何千もの人間を虐殺しているのを目撃したという者はいないのである。」

(田中正明,「南京事件」の総括,34-35,小学館文庫R--14-22007

 

 

○ 「南京大虐殺」が消滅しない不思議

 繰り返すが,日本軍の攻撃の際,全住民は安全区に避難し,安全に保護されていたのである.しかも,その安全区を管理する国際委員会は日本軍の非行に抗議してはいるが,その非行に大虐殺は含まれていない.むしろ日本軍に感謝している.それなのに「南京大虐殺」は一向に消滅しない.不思議なことである.

 

 

 

2.上海事変および南京攻略戦の実相

 

 

○ 盧溝橋事件から通州事件へ

 「昭和十二年(一九三七年)七月七日の盧溝橋事件をきっかけに、日本と中国は全面戦争へと発展するのであるが、そのシナリオは前年の十二月、?介石が張学良に監禁された西安事件以後中国共産党によって工作され、劉少奇の指揮する抗日救国学生隊によって演出されたことは、今では公然と中共みずからが認めているところである。彼らは、夜間演習中の日本軍と宗哲元の二十九軍の双方に向って発砲し、事件をまき起したばかりでなく、日本政府の不拡大方針、現地解決の線に沿って、現地軍と宗哲元との間で話がまとまりかけるとこれをぶちこわし、次ぎ次ぎと事件を起こして拡大をはかった。‥(中略)‥。

 七月二十九日に起きたのが通州事件である。通州の日本人居留民約三五〇人に対し、中国保安隊と暴民が襲いかかり、掠奪、暴行のあげく、婦人・子供をふくむ日本人二百余名が虐殺された事件である。」

(田中正明,「南京事件」の総括,14-16,小学館文庫R--14-22007

 

 

○ 第二次上海事変

 「盧溝橋事件から通州事件にいたる一連の事件の処理をめぐって、日本は中国側と八月九日に上海で和平交渉を行う予定であった。日本は不拡大政策をとっていたのである。

 ところがその和平交渉の当日、上海で中国の保安隊が大山勇夫中尉と部下一名を殺害したことから、第二次上海事変(第一次上海事変は昭和七年)が勃発してしまう。こうして戦火は北支から上海に移っていく。上海では英米仏伊の外国軍がフランス租界や共同租界に駐留しており、いきおい日本と中国の戦いを観戦する形になった。蒋介石の狙いどおり、上海での日中衝突は国際的な注目を引き、欧米諸国を反日へと誘導していくことになったのである。

 上海の日本人居留民三万人を守る日本軍は、海軍陸戦隊二千五百人のみであった。一方、蒋介石はすでに七月十二日に広範な動員令を発令して八月九日の第二次上海事変以前に中央軍十個師団を上海に送り込み、八月十二日には総兵力五万人にふくれあがっていた。そのうえ中国軍はドイツ軍事顧問団の指導のもと、精鋭部隊の訓練とトーチカ(機関銃座のあるコンクリート製防御壁)の構築を行っており、蒋介石の戦争準備は完了していた

 八月十三日から十九日までに上海の日本人居留民二万人が帰国した。しかし、まだ一万人が上海に残っていた。彼らを守る海軍陸戦隊が日本から増派されるが、それでも総兵力五千に満たなかった。

 彼我の兵力には大きな差があり、トーチカとクリーク(小運河)を利用して立てこもる中国軍に、日本軍は苦戦を強いられ、そうとうな戦死者を出すことになった。そこであくまでも上海の邦人保護のための自衛措置として、日本軍は第十軍(第五、第六、第一八、第一一四師団)の急派を決定する。

 第十軍が杭州湾に上陸し、上海を背後から突く形となって、日本軍は三ヵ月間の戦闘の末、多大な死傷者(累計九万八〇〇〇)を出して、ようやく十一月十二日に上海を陥落させた。」

(東中野修道,小林進,福永慎次郎,南京事件「証拠写真」を検証する,28,草思社,2005

 

[寸言] 日本人の居留や日本軍の駐留は条約や協定に基づくもので,それ自体は侵略ではない.しかし,蒋介石は日本人を追い払おうとして,戦争を仕掛けたのである.日本が戦争を始めたのではない

 

 

○ 上海の戦いから南京攻略戦が終わるまでの犠牲者数

 「上海の戦いから南京攻略戦が終わるまでの犠牲者については、日本軍の最高司令官であった松井大将の日記に、日本軍の戦病死者の総数は二万四千に達したとあり、一方、国民党軍軍政部長である何応欽上将の軍事報告には、この間の中国軍の戦死者は三万三千とある。

 日本軍の戦死者のほとんどは上海戦によるもので、予想もしない膨大な数字となった。このときから八年間、日本軍は大陸で戦うことになるけれど、劈頭(へきとう)に最大の犠牲者を出すこととなった。」

(阿羅健一,「南京事件」日本人48人の証言,10,小学館文庫R--9-12002

 

 

○ 「広大な大陸を武器とせよ」というドイツ軍事顧問団の蒋介石への助言

 「(上海は陥落したが)しかし、中国軍は降伏することなく、南京へと逃げる。蒋介石はドイツ軍事顧問団の助言に基づき、「空間を武器として」活かすという観点から、広大な大陸を武器として、日本軍を大陸の奥深くに引き込みさえすれば、勝てなくても負けないという消耗戦の戦略に立っていたのである。」

(東中野修道,小林進,福永慎次郎,南京事件「証拠写真」を検証する,28-29,草思社,2005

 

 

○ 上海から南京への進撃

 「‥‥南京までの急行軍において、日本軍は多くの戦闘に遭遇した。待ちかまえる敵に攻撃されて応戦した場合もあれば、日本軍が敵を見つけて攻撃した場合もある。兵力を比較すれば、敵軍が数倍は優っていた。二個中隊(約四六〇人)が二万の敵軍に包囲されたこともあった。敵味方が入り乱れて南京に殺到してくるにつれ、戦闘はいよいよ頻発し、激しくなっていった。大虐殺を主張する人たちは、日本軍は波状的に敵を殲滅(せんめつ)しながら南京へと攻めていったと言い、あたかも日本軍は無抵抗の敵軍を武器でもって殲滅したかのように聞こえるが、よく頭に入れておいていただきたい。逃げる敵軍も武器を持ち、日本軍の殲滅をはかりながら南京へと向かっていたのである。」

(東中野修道,小林進,福永慎次郎,南京事件「証拠写真」を検証する,31,草思社,2005

 

 

○ 虐殺や女性暴行をする動機も時間もまったくない急行軍

 「へとへとに疲れ、死んだように寝こんでいても、朝が来て、「サァ出発だ」の時間が来る。「辛いこと、辛いこと、フラフラ立ち上がる。肩がミリミリ痛む」と本書も伝えている。フラフラと反対方向に歩き出す者も出た。小休止の時間に、つい眠り込んでしまい、ハッと気づいたときは友軍の姿が見えず、すっかりうろたえながら走りに走って辿(たど)り着いたところが、敵の中であったという話も収録されている。

 このような疲労困憊(こんぱい)の不眠不休の急行軍に、よくも不平も言わずに耐えられたものだ、と思えてくる。しかし、文章のあちこちに出てくるように、「南京を思えばますます勇気は百倍だ」、つまり兵隊たちにしてみれば、南京を早く陥落させて早く戦争を終わらせたいという思いが勇気を奮い起こし、それが急行軍の困難をも耐えさせていた

 それほど、日本軍の心を一つにしていたのは、悲願の南京陥落だった。その他は眼中になかった。南京へ、南京へと不眠不休で続く進撃中に、市民を虐殺しなければならない動機も時間もなければ、女性暴行の時間もないことが読み取れるであろう。」

(東中野修道(編著),1937南京攻略戦の真実,52,小学館文庫R--6-12003

 

 

○ 住民の姿はなかった

 「第一、日本軍の行くところ住民がいなかった。‥(中略)‥。『続どろんこの兵』(昭和五十八年)は、「十一月十六日、‥‥貧乏人も富裕者も避難して一人もいない‥‥いっさいの財産をほっぽり出したままどこへ避難しているのやら考えさせられました」と疑問を記したあと、「二十四日‥‥北支と比べて町も田舎もほとんど焼野ヵ原となり住民の姿を認めないその奇異な現象は、進攻する日本軍に泊まる所等を与えず苦しめ疲れさせる為の敵軍の戦略だとのことです」と疑問の氷解を記している。

 住民の姿はなかったのである。そのことは、本書にも、「道々の家を探したのですが、そこらには誰一人いないで逃げてしまって、向こうの山の上から見ている」と記されている。」

(東中野修道(編著),1937南京攻略戦の真実,52-53,小学館文庫R--6-12003

 

 

○ 漆黒の闇の中で

 「松本氏は大変ザックバランに何でも話をするというタイプの人で、南京攻防戦を「殺すか、逃がすかの戦い」といった。防衛軍の数は、彼の表現を借りれば「こちらの鉄砲玉の数より多かった」。‥(中略)‥。夜、一緒に行軍していた隣の男が、一夜明けてみたら敵軍だったというような例はいくらでもある。あるときなど、こちらの中隊と中隊の間に敵の中隊が入って、一夜行軍したという例すらある。

 なにしろ真の闇夜である。至近距離に近づかないと、敵と味方の区別すらつかない。一瞬「敵」と思って身構えたときには「敵」は闇の彼方に姿を消している。何人殺したかわからない、何人逃げられたかは、さらにわからない。」

(鈴木明,「南京大虐殺」のまぼろし,285,ワック,2006

 

 

 

3.南京陥落の前後

 

 

○ 降伏勧告を拒絶し、南京死守を宣言しながら、逃亡した蒋介石

 「日本軍が中国軍に降伏勧告を提案したことは、「九日頃‥‥友軍機が‥‥降伏勧告ビラを撒いていました」とあるように、本書でも裏付けられる。しかし蒋介石はそれを拒否し、南京死守を宣言しながら、自らは十二月七日に南京を密(ひそ)かに脱出する。」

(東中野修道(編著),1937南京攻略戦の真実,76,小学館文庫R--6-12003

 

 

○ 逃亡した南京防衛軍司令官の唐生智

 「激戦のさなかの十二月十二日、国際委員会は三日間の休戦協定を中国軍に提案した。しかし中国軍はこれを拒否し、通常の軍隊ではあり得ない動きに出た

 その一つは、十二月十二日二十時、南京防衛軍司令官の唐生智が、日本軍に降伏の意思表示をすることなく、ただ一つ開いていた?江門(北門)の狭い通路から逃亡したことである。二つ目は、唐生智の逃亡後、中国兵が軍服を脱ぎ、市民のための中立地帯である安全地帯に逃げ込んだことである。

 十二月十三日、城門は陥落したものの、城内では日本兵を狙った中国兵の狙撃があった。なおも城外では激戦がつづき、追撃戦も起きていた。ちなみに陥落直後は、城内の安全地帯に南京市民と中国兵が、安全地帯以外の城内は「事実上の無人地帯」であって、人がいるとすれば中国兵が、城外には日本軍と戦おうとしている中国兵、逃げようとしている中国兵、そして日本軍がいたことになる。」

(東中野修道,小林進,福永慎次郎,南京事件「証拠写真」を検証する,42,草思社,2005

 

[寸言] 上記の司令官の逃亡および軍服の不着用は明白なハーグ陸戦法規違反である.武器を隠し持っていれば,狙撃も同様であろう.唐生智の逃亡こそ南京における混乱と悲劇の主因であろう.

 

 

○ 脱出しようとした中国軍兵士の不運

 「十二月十二日二十時、唐生智や指揮官たちが軍隊を置き去りにして逃亡し、中国軍はパニックに陥った。日本軍は南京の城門を占領したが、城内の中国軍は指揮官不在のため降伏の意思表示ができない。これは戦闘の終結ではなく、戦闘の継続を意味していた。

 従って、中国軍特有の督戦隊は、多くの中国兵がいち早く脱出しようと指揮官たちの脱出口となった?江門(ゆうこうもん)(北門)に殺到したとき、友軍兵士に射撃を始め、中国兵の戦線離脱を阻止している。しかし督戦隊も形勢の不利を悟って阻止をやめ、他の中国兵たちと一緒に逃げ出した。‥(中略)‥。

 各人各様の思いで、残された中国兵は次のような行動をとる。一つは、唯一開いていた?江門(北門)から脱出するか、?江門の城壁から縄などを下ろして脱出することであった。しかし?江門に一度に多くの兵士が殺到し、パニック状態となって、多くの圧死者が出た。城壁からの脱出組も転落死の悲劇に見舞われた。」

(東中野修道(編著),1937南京攻略戦の真実,116-117,小学館文庫R--6-12003

 

 

○ 軍服を脱ぎ民衆の中に紛れ込んだ中国兵(便衣兵)

 「中国軍は、証言にもあるように、降伏を拒否していた。日本軍と最後まで戦うつもりだったし、追い詰められても、降伏は認められていなかったから、捕虜になるという考えや気持ちもなかった。最後の段階になって中国兵は軍服を脱ぎ、市民の中に紛れ込んだ。中国軍には戦時国際法が念頭になかった。」

(阿羅健一,「南京事件」日本人48人の証言,315,小学館文庫R--9-12002

 

[補足1](便衣兵の目撃証言と状況証拠)

 米国人記者ダーディンは,中国兵が軍服を脱ぎ便衣に着替える現場を目撃している.この記者は兵士が一般人から便衣を剥ぎ取るのも見ている.米国南京副領事エスピーは便衣を奪うために兵士が殺人を犯したと確信している.南京に入城した日本軍軍人は,市内全域に大量の軍服やゲートル、軍靴などが散乱しているのを目撃している.

(田中正明,「南京事件」の総括,155-160,小学館文庫R--14-22007

 

[補足2](日本軍の攻撃より前に無法状態になった南京)

 「十二月七日、蒋総統ら政府、軍の高官が南京を脱出した時点から、南京はパニック状態に陥った。富裕階級や高級官僚は持てるだけの荷物と現金をもって、南京を脱出し、続いて、司法院も行政府も立法府の官吏も、およそ役人という役人は政府要人のあとを追って南京を脱出した。地方公務員も同様である。教師、警察官、郵便局員、電話、電信、水道局の工員に至るまで、われ先にと南京脱出をはかり、南京は文字通り、無政府状態におかれた前記したように警察官四五〇名が国際委員会の管轄下に残ったのみで、官公吏全員南京から姿を消してしまったのである。

 十〜十二日には電話は不通になり、水道はとまり、電気もつかなくなった。しかも警察も裁判所もなくなったのであるから、完全な無政府状態である。略奪、強盗勝手しだいといった、暗黒の都市になった。‥(中略)‥。こうした時の徹底した略奪ぶりは、戦国時代この方、歴世中国兵の常習である。」(田中正明,「南京事件」の総括,141,小学館文庫R--14-22007

 

 

○ 南京城外での追撃戦と城内での掃討戦

 「中国軍は城門が陥落しても降伏してこなかった。そのなかには、依然戦闘の闘志を秘めた兵士がいたであろう。戦う意思を完全に捨てた兵士もいたであろう。どちらか決められない兵士もいたであろう。このような状態では、いつ戦闘状態になるかわからない。これは日本軍にとっても住民にとっても安心できる状態ではない。中国兵が組織的に降伏してこない以上、いずこの軍隊も行うように、日本軍も、逃げる敵には追撃戦を、潜伏中の敵には掃蕩戦(そうとうせん)を展開した。

 大虐殺を主張する人たちは、これをもって虐殺行為と言うが、追撃戦は古今東西の戦場の常識である。また、掃蕩戦は自軍と市民の安全確保のためにも不可欠である。追撃戦の多くは城壁の北の下関(シャーカン)付近、東の紫金山付近で行われた。追撃戦は逃げる敵を一方的に射殺するように思われるが、相手は死に物狂いで向かってくるのである。ともに生きるか死ぬかの戦闘であった。‥(中略)‥。一方、掃蕩戦は、前述した城内の安全地帯と安全地帯以外の城内で行われた。ただし、安全地帯以外の城内は陥落直前に無人地帯になっており、掃蕩の対象はほとんど城内の安全地帯であった。」

(東中野修道,小林進,福永慎次郎,南京事件「証拠写真」を検証する,44-45,草思社,2005

 

 

○ 二万人の中国兵に包囲された百六十人の中隊

 「城門が陥落した十二月十三日、漢西門(西門)の西の揚子江岸に近い上河鎮(じょうかちん)で、第六師団の鹿児島歩兵第四十五連隊第十一中隊「百六十人」は掃蕩のため下関(シャーカン)へと北上中に、下関から南下してきた逃走中の「二万」の中国兵に包囲され(水上註:「包囲」は適切ではなく,「遭遇」であろう)、中隊長の大薗尚蔵大尉以下十四名が戦死する激戦となった。のちに師団司令部が中国兵の死体数の調査を命じている。川に流れて死んだ者も多かったが、「二千三百七十七人」が確認された。」

(東中野修道(編著),1937南京攻略戦の真実,119,小学館文庫R--6-12003

 

 

[参考1](この戦闘から二万八七三〇人虐殺という大ウソが生まれた)

 「戦いやんで第十一中隊の先任将校赤星少尉が部下とともに敵の死体を調査したところ、二三〇〇、水際の遺棄死体約一〇〇〇、計三三〇〇、‥(中略)‥。わが方の損害、大薗中隊長戦死のほか、戦死傷者八〇人、約三分の一がやられたことになる。しかし(水上補:湿原なので)横に散開できない堤防上の一本道で、地理的好条件であったため、僅(わず)か二五〇の兵力で約一万の敗残兵の来襲を壊走せしめたことは武勲といわねばならぬ。‥(中略)‥。

 この三三〇〇の戦死体を、湖南省の木材商が自分の木材の安否をたしかめるためやってきて見た。そのおびただしい死体におどろき、これがのちに、二万八七三〇人を虐殺する場面を見たというウソの証言になり、記念館設立の主旨に謳われるようになったのである。」

(田中正明,「南京事件」の総括,207,小学館文庫R--14-22007

 

[参考2](虐殺の証拠とされている有名な写真の漂着死体と土手の死体について)

 「この戦闘に武勲をたてた高橋義彦氏は筆者への手紙の中で次のような興味ある話題を提供くださったので紹介する。‥(中略)‥。

 「毎日新聞」が昭和五十八年八月十六日付で「南京大虐殺は事実だ/証拠写真を元日本兵が撮影していた」と大きく報道した。この写真を見て高橋氏は、これらの写真の背景からして、これはかつて自分が戦った新河鎮の戦跡である、一枚はその漂流の戦死体が夾江と揚子江の合流点に打ち上げられたものと直観した。‥(中略)‥。

 その写真のキャプションも「揚子江に注ぐクリークにおかれた中国人の死体」となっており、占領の一週間のちに撮ったもので、のちになって撮影は村瀬守安氏(東京目黒輜重隊)であることがわかった。村瀬氏は揚子江岸というだけで、どこで撮ったかをあいまいにしているが、一枚の写真は死体の背景に木材の山があり(水上註:上の[参考1]に出てくる木材に留意のこと)、左に揚子江の支流が流れている。一枚は明らかに堤防の土手の傾斜に死体が折り重なっており、他の一枚の洲に打ち上げられた漂流死体の背景は見覚えのある合流点である。これは新河鎮における戦闘の中国軍戦死体の写真である。」

(田中正明,「南京事件」の総括,209-211,小学館文庫R--14-22007

 

[註] 「南京事件の総括」によると,この戦闘は上河鎮から下関への途中で行われ,新河鎮の戦いと呼ばれている.戦場の近くに部落があり(南京事件「証拠写真」を検証する,226ページ),文中に登場する高橋義彦氏はこの部落を新河鎮と呼んだものと思われる.中国兵の数は不確かである.上河鎮には城壁があり,その攻撃に当たったのが第十二中隊(田中軍吉大尉)だった.それについては後で述べる.東中野修道他著「南京事件証拠写真を検討する」ではもちろん上で紹介した写真について論じている.なお,高橋氏は山砲,工兵各一小隊を率いる中尉であった.

 

 

○ 中国軍の焦土作戦と南京市街での放火

 「(鈕先銘の『還俗記』には)下関は「清野戦術」(焦土戦術)のため南京退却に際し焼き払われたと述べられている。‥(中略)‥。このほか鈕先銘は、自分の管理下にあった二四艘のゴムボートが、総司令官唐生智の「破釜沈舟」(出陣にさいし、釜をこわし舟を沈めること、決心を固める意)の命令により他の部隊の手で焼き払われ、自分の南京脱出を不可能にしたと述べる。多数の中国兵が揚子江を渡河して南京を脱出できず、市内に潜伏せざるをえなかった理由として、甚だ興味深い。

 以上の事実から考えれば、日中戦争当時の欧米人や中国人が記述する日本兵による占領後の南京市街での頻繁な放火行為には、再検討が必要である。何よりも日本軍には放火の動機が希薄である。戦闘中であれば必要に応じて建物に放火することは考えられるが、占領後の南京市外を焼き払うのは自分の首を絞めるようなものである。日本側は三八年の一月初めには南京市自治委員会を組織し、安全区に居住する市民の現住所への復帰を促していた。一方で帰宅を命じ、一方でその家に火を付けるようなことが起こりうるのか

 ニューヨーク・タイムズの三八年一月九日のダーディン特派員の記事には、「中国軍による焼き払いの狂宴」という小見出し付きの一節があり、中国軍が「清野戦術」(焦土戦術)により南京郊外の建物を焼き払ったことが詳しく報道されている(洞富雄編『英文資料編』、二八五頁)。‥(中略)‥。

 以上の事例から判断すれば、南京市街への放火は、日本軍の占領政策を困難ならしめようとする国民党側にこそ動機が濃厚である。」

(北村稔,「南京事件」の探究,132-134,文春新書2072001

 

 

 

○ 市民と兵士を区別する責務を怠った国際委員会

 「城内中央の欧米人の住宅街に設置された安全地帯は、非戦闘員のための避難地帯であるため、そこを管理した欧米人の国際委員会はそこに戦闘員の侵入を許してはならなかった。しかし安全地帯は厳重に区画されていなかったので、中国兵は軍服を脱ぎ捨て武器を投げ捨てるか隠し持って市民になりすまして入った。‥(中略)‥。

 南京では国際委員会が市民と兵士を区別しなかったがため、日本軍がそれを区別せざるをえなかったのである。安全地帯を管理する国際委員会に、それを怠った重大な責任があった。」

(東中野修道(編著),1937南京攻略戦の真実,117-118,小学館文庫R--6-12003

 

 

○ 反抗的な数千人の兵士を処刑

 「三・八六平方キロの安全地帯は非戦闘員の市民で「スシ詰め」で、そこに二万と推定される兵士が市民になりすまして潜伏していた。安全地帯内の中国軍の高射砲陣地は撤去されないまま残っており、武器を隠し持っている兵士も多数いた。‥(中略)‥。この安全地帯での掃蕩戦の結果、日本兵は多くの中国兵(不法戦闘員)を摘発した。そして白昼、反抗的な数千人にかぎって揚子江岸で処刑を実行した。これは事実である。(中略)‥。

 日本軍は摘発した中国兵すべてを処刑したのではない。日本軍は彼らを苦力(クーリー;日雇いの人夫)として使い、その数は昭和十三年二月末現在で「約一万人」に達している。また中国兵を市民として認定もし、登録していた。」

(東中野修道,小林進,福永慎次郎,南京事件「証拠写真」を検証する,45-49,草思社,2005

 

 

○ 反抗的でない市民が間違って処刑された可能性はきわめて低い

 「日本軍は反抗的な兵士だけを処刑しており、市民と判明した者は進んで解放していたから、たとえ誤認による摘発が生じたとしても、反抗的でない市民が処刑された可能性はかぎりなく低いと言わなければならない。もし集団の避難生活のなかから市民が間違って摘発されたとしたら、周囲の市民がそれは間違いだと言って大騒ぎしたはずである。」

(東中野修道,小林進,福永慎次郎,南京事件「証拠写真」を検証する,52,草思社,2005

 

 

○ 住民登録を行って「安居之証」を発行した日本軍

 「事実として、日本軍は三八年一月初旬に南京市内の住民登録を行って「安居之証」(安全に居住するための証明書)を発行し、これを所持する人間の生存を保障した。「安居之証」の表面には所持する人間の性別・年齢・体格・容貌の特徴が記され、日本軍に対し害意を持たないことを証すると記されていたという。」(北村稔,「南京事件」の探究,139,文春新書2072001

 

[補足](「安居之証」の発行部数‥‥南京陥落前後の人口増減が判る資料として)

 「スマイスは日本軍が南京を占領した三七年十二月から自らが調査した翌三八年三月までの間に、南京の人口に大規模な増減があったという判断を全く示していない。これは南京市民に対する大虐殺の存在を認識していないのと同義である。しかしながら、以下のように反論するのも可能であろう。『スマイス報告』にいう南京市内の人口は調査の行われた三八年三月現在の数字であり、これは南京での大虐殺の終了したあと市外から流入したものである、と。‥(中略)‥。

 日本軍は占領直後の三八年一月初旬に南京市内の住民の再登録を行い、「安居之証」を発行した。この「安居之証」の発行数量が分かれば、人口の見当がつく。(中略)‥国民政府国防部の「南京事件」判決は、大虐殺の最も激しかった期間を日本軍占領から二週間以内とする。三七年十二月十三日から年末までである。それゆえ翌年の一月初旬までには、人口には相当の減少があったはずである。(中略)‥。ところが「安居之証」の発行数に関しては、一九三八年一月十四日付けで安全区国際委員会委員長のラーベ自らが次のように証言している。「貴下が登記した市民は十六万人と思いますが、それには十歳以下の子供は含まれていないし、幾つかの地区では、歳とった婦人も含まれていません。ですから当市の総人口は多分二五万から三〇万だと思います」。」

北村稔,「南京事件」の探究,158-159,文春新書2072001

 

 

○ 日本軍に救いを求めた住民

 「(梶村少尉が上海付近に駐屯していた)一九三八年(昭和十三年)一月十五日、塘湾鎮(とうわんちん)の村人が敗残兵に襲われ、梶村少尉の中隊に救いを求めてきた。村民に案内された梶村少尉一行三十余名が現場に急行したときは、敵の四、五十名が逃走したあとであった。‥(中略)‥。

 中国の軍隊は滅多に給料を払わなかった。そこで略奪や殺人などの悪事を働いたから、‥(中略)‥、いつしか「良鉄は釘にはならず、善人は兵にはならぬ」という諺(ことわざ)が生まれた。自国の軍隊の悪事を、敵国の軍隊に通報して、敵国の軍隊に討伐してもらわなければならない農民たち(註参照)。この一事をもって、中国の軍隊がどのような軍隊であるか判断できる、と梶村少尉は嘆いている。」(東中野修道(編著),1937南京攻略戦の真実,188,小学館文庫R--6-12003

[註] 「国家」は近代の概念である.当時の中国はまだ近代には遠く,民衆の意識に「国」はなかった.しかも,支配者はしばしば替わるから,支配者が誰であれ,善い支配者でありさえすればよかった.たとえ,それが日本軍であってもである.梶村少尉は中国人をよく理解していなかったのである.(末尾の参考事項5を参照のこと)

 


 

 

4.南京裁判と東京裁判の判決

 

 

○ 東京裁判で松井大将と広田外相に死刑

 「日本軍が南京に入った十二月十三日から一月下旬まで、暴行、略奪、強姦、放火が南京で繰り返されたと東京裁判で判決された。虐殺数は十万人とも二十万人とも言われた。それらを止めるため適切な手段を講じなかったとして最高司令官の松井石根大将が絞首刑になった。また、当時外務大臣だった広田弘毅も同じ責任を問われ、ほかの理由とあわせて絞首刑となった。」

(阿羅健一,「南京事件」日本人48人の証言,10-11,小学館文庫R--9-12002

 

 

○ 南京で処刑された谷寿夫第六師団長,田中軍吉大尉,野田毅少尉,向井敏明少尉

 「東京裁判では、アメリカなどは当初の四万人虐殺を、中華民国は三十四万人虐殺や二十八万人虐殺などを主張し、あわせて掠奪(りゃくだつ)・強姦などをも告発した。そのため南京攻略戦の最高司令官であった松井石根大将がその責任を問われて東京裁判で絞首刑となった。また本書にも出てくる谷寿夫第六師団長と、田中軍吉大尉、野田巌(水上註:正しくは野田毅)少尉、向井敏明少尉も南京で処刑されている。」

(東中野修道(編著),1937南京攻略戦の真実,13,小学館文庫R--6-12003

 

[註] 野田毅が野田巌と誤記されることがあるが,その原因は,東京日日新聞の第四報記事の誤りである.その記事を根拠にした南京裁判の判決文でも野田巌と記されているとのことである.

 

[参考1](谷寿夫中将の申弁書の序文から)

 「被告は民国二六年(昭和12年)八月中旬以降約五ヵ月間、第六師団長として北支及中支の広大長延なる地区に行動したるも、其期間専ら作戦に従事し、起訴書に提示せられたる南京駐留一週間内に於ける多数の殺人強姦財産破壊事項を、被告の部下の行為なりとなすの論告は、本申弁書に以下陳述する各種の理由に依り、被告の絶対に認むる能はざる所なり

 被告は此等の暴行ありしを、見たことも聴きたることもなく、又黙認目許せしこともなく、況んや命令を下せしことも、報告を受けたることもなし。又住民よりの訴へも、陳情を受けたることもなし。此事実は被告の率ゆる部隊が、専ら迅速なる作戦行動に忙はしく、暴行等を為すの余裕なかりしに依るの外、被告の部下指導の方針に依るものなり。即ち元来被告は中日親善の信念に基づき、内地出発当時の部下に与へたる訓示にも「兄弟国たる中国住民には骨肉の愛情を以てし、戦闘の必要以外、極力之を愛撫し俘虜には親切を旨とし、掠奪、暴行等の過誤を厳に戒めたる」に依る外、各戦闘の前後には機会を求めて隷下部隊に厳重に非違行為を戒め、常に軍紀風紀の厳正を要求し、犯すものには厳罰を加へにたるに原因す。故に被告は被告の部隊に関する限り此等提示せられたる戦犯行為なきを確信す。

 尚起訴書には被告を日本侵略運動中の一急進軍人なりと記述せられあるも、被告の経歴其他に依り該当せざること明瞭なり。‥(後略)。」

 

[参考2](中国では854人のBC級戦犯が裁かれ、149人が死刑に処された)

 8ヶ国で5423人のBC級戦犯が裁かれ,920が死刑に処された.中国では854人のうち149人が死刑になった.(児島襄,東京裁判(下),233,中公文庫こ-8-41982

 

[補足1](四万人虐殺説)

 この説は,南京に残留し一部始終を知っていたという南京大学教授で宣教師でもあるマイナー・ベイツが,東京裁判で「城内で一万二千人の男女及び子供が殺されたことを結論とする」と市民虐殺をはっきり述べ,「陥落から最初の三日間に三万人の兵士が殺された」と暗に捕虜虐殺を証言したことに基づいている.

 この証言は,ベイツが匿名で南京大虐殺の決定的証拠とされている英語版の『戦争とは何か』(ティンパーリ編,WHAT WAR MEANS)に書き込んだ次の一文と内容的には同じである.「非武装の四万人近い人間が南京城内や城壁近くで殺されたことを埋葬証拠は示しており,そのうちの約三割は決して兵士ではなかった」.ただし,今では,ベイツは中華民国政府の顧問であったこと,表向きはマンチェスター・ガーディアン中国特派員であったティンパーリも実は国民党中央宣伝部の顧問かつ対外工作員であったこと,また,ベイツの証言も『戦争とは何か』も国民党が外国向けに行った虚偽の宣伝であったことがわかっている.

(たとえば,東中野修道(編著),1937南京攻略戦の真実,21-25,小学館文庫R--6-12003

 

[補足2](三十万人虐殺説‥‥南京裁判)

 南京裁判では三十万人以上の虐殺を認定した.一九三八年当時に南京で紅卍会と崇善堂という2つの慈善団体が埋葬した遺体の数と,戦後の調査による日本軍の殺戮行為に関する住民証言などから推定した数を合わせたおおまかな数が三十万になるのだという.しかし,遺体がすべて日本軍の虐殺によるとは暴論である.また,埋葬遺体数16万には,その存在自体が疑われている崇善堂が埋葬したという11が含まれる.(南京事件の探求,70, 79, 152, 163

 現地の日本軍は,南京占領直後に遺棄死体を五万人余りと報告しているという.紅卍会が城内で埋葬したのは一七九三人にすぎない.この数字は,南京攻防戦に際して城内での激しい市街戦がなかったことの反映であり,同時に「日本軍による市内各所での大規模な虐殺の展開」とは明らかに矛盾する.また,紅卍会の埋葬報告では,女と子供の遺体はほとんどなかった.この事実も無差別な虐殺の存在を否定する.(南京事件の探求,147-148, 163

 「南京事件の探究」に「三十万人虐殺説」が形成される過程が推測されているが,簡潔に要約するのは困難である.ただし,その発端は1938116日に送信を差し止められたティンパーリの記事だという.この記事は,?介石が19371218日に「抗日戦争開始以来の全軍の死傷者は三十万人に達した」と述べたことに基づいていたものと推察されている.この送信差し止め事件は日後,国民党直轄の湖南『中央日報』が報じたが,差し止められたと報じられた記事の内容は「南京・上海一帯で虐殺された中国人の数は三十万人に達した」であった.とすると,この過程ですでに,軍人の死傷から民間人の殺害へと話が脚色されて暴虐性が捏造され,さらに戦闘地域が狭小化されて被害の甚大性が強調されていたのである.したがって,「三十万人虐殺」というウソは日本の敗戦よりずっと前に準備されていたことになる.中国ではこのような「愛国虚言」が作り上げられると,それをウソだと公言する者は漢奸(裏切者、売国奴)というレッテルを貼られる.したがって,信じていなくても,誰もウソだとは言わない

 

[追補1](崇善堂は知らない―大西大尉の証言1)

 「―自治委員会も埋葬活動をしたと記録にありますが‥‥。

 「自治委員会も働いたが、死体の埋葬はそんなにやらなかったと思います。紅卍字会が中心にやっていました。それから、何とかいう団体が埋葬したというが‥‥」

 ―崇善堂ですか。

 「そうそう。当時、全然名前を聞いたことはなかったし、知らなかった。それが戦後、東京裁判で、すごい活動をしたと言っている。当時は全然知らない」」

(阿羅健一,「南京事件」日本人48人の証言,190,小学館文庫R--9-12002

 

[追補2](明らかになった崇善堂の正体)

 阿羅健一氏が国会図書館で,崇善堂の正体を記述してある資料を発掘した.それによれば,崇善堂という慈善団体は確かに存在していたが,その事業は衣料給付や寡婦の救済,保育である.活動規模は小さく,葬儀・埋葬は行っていなかった.すなわち,崇善堂が行ったという112千という膨大な死体埋葬は架空だったのである.(田中正明,「南京事件」の総括,68-70,小学館文庫R--14-22007

 

[補足3](十万人虐殺説‥‥東京裁判

 上記のように南京裁判で認定した虐殺数には信憑性が乏しいこと,および南京陥落前後で人口が変化していないことが無視できなかったためであろうか,東京裁判では虐殺数が割り引かれた.ただし,割り引く論拠は示されなかった.論告では「二十万人以上」であったが,判決では「十万人以上」に減った.

 なお,東京裁判では,南京裁判では出てこなかった城外での避難民虐殺が取り上げられている.その数は万七千人以上.単純にベイツが証言した数に加えてみると,約十万人になる.あるいは,紅卍会が戦後に提出した統計表に載っている城内外の全埋葬数四万三〇七一体(城内は一七九三体)に加えたとも言えよう.証言によれば,この数字は埋葬当時は日本軍の圧迫で公表できなかったのだという.(南京事件の探求,75, 76, 77, 146, 163

 

[註] 上では論告での二十万人が判決で十万人に減ったと書いたが,「南京事件の総括」は,東京裁判の判決文そのものの中に矛盾があると指摘している.その他の点も含めて次に引用する.

 「これはいったいどうしたことか。一つの判決文の中に、殺害した人数が三通りある。一方では二〇万人以上といい、一方では十万人以上という(水上補:もう一方では十二万七千人。なお、松井大将個人に対する判決では十万人以上)。極東国際軍事裁判と銘うって、七人の被告を絞首刑に処した厳粛なるべき人類はじまって以来の世紀の裁判と銘うった裁判の判決文が、このように杜撰(ずさん)きわまる大でたらめなものであるということを、読者の皆さんはよく記憶しておいていただきたい。

 文官の廣田弘毅被告が軍人職である「軍事参議官」の肩書のまま処刑されている。荒木貞夫被告はなったこともない「内閣総理大臣」の肩書がついている。弁護側がいくどその誤りを指摘しても遂に判決までこの誤りは修正されなかったというでたらめぶりである。その「軍事参議官廣田弘毅」は五対六の一票の差で絞首刑を宣言されているのである。およそ文明国の裁判では考えられないことである。」(田中正明,「南京事件」の総括,238,小学館文庫R--14-22007

 

[追補](五万七千四百十八人の虐殺を目撃したという証言を採用した東京裁判)

 戦後,中華民国政府は南京裁判を行う準備として,日本軍の残虐行為の目撃証言を集めた.そのなかに,魚甦という中国人の証言がある.魚甦は砲弾で足を負傷していたとき,幕府山に近い上元門で,退却する中国兵と避難民を合わせて五万七千四百十八人が餓死し,凍死し,機銃で掃射され,最後には石油をかけられて焼かれるのを見たのだという.東京裁判ではこの証言を採用して南京郊外での虐殺人数を五万七千としたのである.そのでたらめさに対する怒りの文章を次に引用する.

 「当時幕府山にいた部隊は歩兵第六十五連隊の山田支隊のみで、その兵力は僅(わず)か一五〇〇、その山田支隊が約十倍の一万四〇〇〇人の捕虜を抱えてその始末に困惑していたのである。魚甦はおそらくこれを五万七四一八と数え、幾日かかったか知らないが、これだけの大群衆が最後には掃射され、石油をかけて焼かれるまで見届けたというのである。しかも一の単位まで数えたというのであるからまさに超人的である。この中国人特有の“白髪三千丈”式の孫悟空的物語りを、東京裁判はことごとく判決文に採用しているのである。強姦二万件というのもラーベの噂話である。」(田中正明,「南京事件」の総括,236,小学館文庫R--14-22007

 

 

○ A級戦犯として起訴され,B級戦犯として処刑された松井石根大将

 「一九四六年から南京で行われた国民政府国防部戦犯軍事法廷は、一九三七年から三八年にかけての日本軍の南京占領期間中に、大量の殺人、放火、略奪、強姦が発生し、三十万以上の中国人が殺害されたという判決を下した。続く東京の極東国際軍事裁判も、日本軍占領期間中の殺人、放火、略奪、強姦の発生を確認し、殺害者数は十万人以上であったと認定した。この結果、南京では日中戦争当時の南京攻撃軍の師団長の一人であった谷寿夫中将が虐殺の責任を負わされ、B級戦犯として死刑に処された。東京でも、日中戦争当時の南京攻撃軍の総司令官であった松井石根陸軍大将が虐殺の責任を負わされ、同じくB級戦犯として死刑に処された。

 南京での「大虐殺」の責任を負わされた松井石根大将は、戦時国際法に違反するB級戦犯として処刑されたが、裁判開始当初は東条英機らと同様のA級戦犯としての罪状も含めて起訴されていた。この事実は「南京事件」が単なる戦争犯罪としてではなく、連合国側の断罪する「平和に対する罪」を有する侵略戦争の象徴として位置づけられようとしたことを示している。」

(北村稔,「南京事件」の探究,9,文春新書2072001

 

[参考](松井大将の潔癖さが誤解を招いた)

 「とにかく検察は物的証拠を一点も提出していない。写真一枚すらない。裏付けの取れない証言と、作成者のわからない資料。それが証拠の全てだった。つまり、南京で虐殺があったと確かに立証しうる証拠は、何も提示されていないのだ。

 ところが、松井は南京の暴行事件を完全には否定せず、「興奮した一部若年将兵の間に忌むべき暴行を行った者があったらしく」と、認めた。ただしそれはどこの占領地でも起こる軍紀違反の犯罪のことであり、検察が主張する「大虐殺」までは決して認めていなかった。それでも松井が認めた少数の「暴行事件」と検察の言う「大虐殺」の区別はよく伝わらず、反証が弱いという印象を与えてしまった。‥(中略)‥。

 松井は最後まで、自分がナチスに匹敵する「人道に対する罪」を被(き)せられたとは思っておらず、ただ明治の日本軍を知る古い軍人として僅かな軍紀の弛(ゆる)みも許しがたく、痛恨の一大事と認識していたのだ。だが、その潔癖さがかえって誤解を生み、「大虐殺」を認めたかのように思われてしまった

 松井は生涯を日中友好のために尽くした人物であり、その礎石となるべく、従容(しょうよう)として死についた。それなのに、その御霊が靖國神社に祀られていることを、中国が日本攻撃の道具に使うとは、何たる無情、何たる皮肉であろう‥‥。」

(小林よしのり,いわゆるA級戦犯,129,幻冬舎,2006

 

[寸言] 仮に松井大将の証言が誤解されなかったとしても,死刑という結果は変わらなかったであろう.なぜなら,既述のように,当時の外相広田弘毅でさえ死刑を免れなかったのである.弁護側の証人は三人,提出した書証は三通にすぎなかった.弁護側の反論は淡白で,検事は弁護側の証人の否定にはお構いなしに次々に検事側証言を並べ続けた.この法廷技術は“記録方式”と呼ばれ,「証人が知らぬと言っても,逆にそれを否定する証言の積み重ねでそのような事実があったのではないかという印象を判事に与える」やり方である.(参考:児島襄,東京裁判(下),81-83,中公文庫こ-B-41982

 

[補足] 「パール判事はこれらの証拠および証言の多くが、伝聞証拠であり、連合国側の現地における一方的な聴取書であることを指摘したのち、つぎのように述べている。

 「戦争というものは、国民感情の平衡を破り、ほとんど国民をして狂気に追い込むものである。同様に、戦争犯罪という問題に関しても、激怒または復讐心が作用し、無念の感に左右されやすい。ことに戦場における事件の目撃者というものは、興奮のあまり、偏見と憶測によって、とんでもない妄想を起こしやすい。われわれは感情的要素のあらゆる妨害を避け、ここにおいては戦争中に起こった事件について考慮をはらっていることを想起しなければならない。そこには、当時起こった事件に興奮した、あるいは偏見の眼をもった観測者だけによって目撃されたであろうという特別の困難がある」として、いくつかの例をあげ、目撃者と称する証人の証言の矛盾を指摘している。」

(田中正明,パール判事の日本無罪論,170-171,小学館文庫R-142001

 

 

○ 3人の尉官が問われた罪

 田中軍吉大尉は三百人,向井少尉と野田少尉はそれぞれ百人以上の捕虜および非戦闘員を斬殺した罪を,両少尉はさらに娯楽として人を見れば老幼を問わず手当たり次第に斬殺し,その数の多寡を競った罪を問われた.他に,「百人斬りの獣行により日本女性の欲心を買わんとしたことは現代人類史上聞いたことがない」という大袈裟な表現で述べられた罪状もある.両少尉の罪の根拠は東京日日新聞の記事である.田中大尉の罪の根拠はやはりマスコミ報道にあるらしいが,その記事自体を私(水上)は特定できない.しかし,「三百人斬り」がどの戦闘でのこととされているかが,「南京事件の総括」に述べられているので,次に紹介する.

 

 

○ 田中軍吉大尉の「三百人斬り」について

 「田中大尉は上河鎮に猛攻を続行したが、敵の抵抗意外に頑強で占領に至らず夜になる。夜襲を試みたが成功せず、この戦闘で、第一小隊長益田少尉、第二小隊長今林少尉ほか多くの下士官兵を失った。翌日他の中隊の支援を得て、辛うじて上河鎮は陥落した。しかし、田中軍吉大尉が戦ったのはこの戦闘しかない(中略)‥。

 田中大尉は映画俳優で、美男で、自己顕示欲の強い能弁家であったよし。二人の小隊長まで戦死せしめた敗戦の鬱積(うっせき)を、軽薄にも手柄話にかえて記者団に長広舌をふるったのが仇(あだ)となったもの。いたずらに戦場美談(?)を煽った(あおった)当時のマスコミの無責任な虚報や、南京法廷がいかにいい加減なものであったか、この事実だけでも知れよう。」

(田中正明,「南京事件」の総括,205,小学館文庫R--14-22007

 

 

○ 「百人斬り競争」という戦意高揚記事の犠牲になった野田毅少尉と向井敏明少尉

 「曾虚白(水上註:193711月から国民党中央宣伝部宣伝処長)『自伝』は、‥(中略)‥、日本軍の南京占領直後の状況を次のようにいう。「‥(中略)‥。物事は信じ難いほど都合よくいくもので、我々が宣伝工作上の重要事項として敵の暴行〔の事例〕を探し集めようと決定したとき、敵のほうが直ちにこれに応じ事実を提供してくれた」。

 曾虚白は、日本軍の南京攻略時に東京日日新聞(水上註:今の毎日新聞)が伝えた「百人斬り競争」の報道と、日本軍は「怒涛のごとく南京城内に殺到した」という読売新聞の掲げた見出しに飛びついた。いうまでもなく「百人斬り競争」とは、二人の日本軍士官が上海から南京に向かう戦闘に際して、日本刀による敵兵の殺害数を競ったという三回にわたる戦地からの報道記事である。これらの記事の十二月六日分および十二月十三日分が当時の東京で発行されていたアメリカ人経営の英字紙であるJapan Advertiserに転載され、さらにこの転載記事がティンパーリーによりWHAT WAR MEANSに付録として収録される。そして二人の日本軍士官(水上註:野田毅少尉と向井敏明少尉)は戦後の南京での裁判で、東京日日新聞のこの記事が唯一の証拠となりC級戦犯として死刑に処せられる。」

(北村稔,「南京事件」の探究,41-42,文春新書2072001

 

 

戦意高揚の武勇伝が殺人競争に脚色される過程

 「東京日日新聞の伝えた「百人斬り競争」では、斬殺の対象は戦闘中の中国軍兵士であり、飽くまでも武勇伝として紹介されていた。しかしJapan Advertiserに転載されるさいの翻訳では、in individual sword combat(剣による個々の戦闘において)と記述されたにもかかわらず、斬殺の対象がhundred Chinese(百人の中国人)と記述され、さらにWHAT WAR MEANSに収録されるさいにはMurder Race(殺人競争)という表題がつけられ、いかにも戦闘以外での殺人を伴う戦争犯罪であるという装いがなされた

 ともあれ、戦意高揚を狙って報道されたはずの武勇談が、敵を非難する戦時宣伝の材料として取り上げられ、殺人行為として告発されたのである。」

(北村稔,「南京事件」の探究,42-43,文春新書2072001

 

 

○ 南京裁判で持ち出されたのは、『戦争とは何か』の漢訳版『日軍暴行紀実』

 「東京裁判ではティンパーリ編『戦争とは何か(WHAT WAR MEANS)』が直接証拠として提出されることはなかったが、それを基にして南京の日本軍を俎上(そじょう)に載せていた。しかし東京裁判が「百人斬り競争」を問題にすることはなかった。「百人斬り競争」の証拠は新聞記事だけであり、確証はなかったからだ。

 一方、南京裁判は、ティンパーリ編『戦争とは何か』ではなく、その漢訳版である『日軍暴行紀実』を証拠に「百人斬り競争」を俎上に載せることにした。『日軍暴行紀実』には、これを持ち出すだけの価値があったのか。

 それはあった。それが写真であった。中央宣伝部は英語版には写真を一枚も載せていなかったが、漢訳版には「略奪・殺人・強姦」を裏付けるかのような写真を多数載せていた。それらの写真は、共著の『南京事件「証拠写真」を検証する』で検証したように、いつどこで誰が撮ったものか分からない、信憑性(しんぴょうせい)のない戦争プロパガンダの写真であったが、「略奪・殺人・強姦を意のままにする」日本軍や、日本の新聞記事の「百人斬り競争」を裏付ける「証拠写真」であるかのように使われていた。

 ティンパーリ編『戦争とは何か』の付録に収録された「百人斬り競争」の新聞記事だけでは証拠にならなかったが、その漢訳版の『日軍暴行紀実』に掲載された写真が「百人斬り競争」を真実であるかのように後押ししていたのである。「日本軍は残虐」と烙印を押す南京裁判の目的を達成するうえで、「百人斬り競争」は国民党政府にとって恰好(かっこう)の材料となった。」

(東中野修道,南京「百人斬り競争」の真実,133-134,ワック,2007

 

 

大虐殺の明白な証拠」とされた「百人斬り競争」

 「(南京裁判における「論告求刑」の)大要は、「東京裁判」で述べられたものと同一である。主文の中には、時として「十九万余」という漠然とした数字を使ったかと思うと、時には「(中略)‥、木器四百件、衣服三十余箱を盗まれた」というように、突如具体的な名前が出てくる。谷寿夫の申弁書の中にある「殊に‥‥不可能事なり」などの字句は、これら不統一な内容に対する抗弁の一端であったと思われる

 もう一つ、この「論告求刑」を読んで初めて気がついたのは、谷寿夫を被告とする「南京大屠殺案件」において、日本軍士官の二人(向井、野田両少尉)の「殺人競技」が意外に大きくとりあげられていることである。出版された本には、「昭和十二年の「毎日新聞」の写真が大きく掲げられ、「これは、日本軍が大量虐殺をした鉄の証拠である(日軍在南京屠戮淫掠的鉄証)」と書かれている。(中略)‥、向井、野田の両名は谷寿夫の部隊とは何の関係もなく、「殺人競技」は日本の一人の新聞記者によってのみ伝えられたものであって、中国人側からの被害届け、ないし見聞の証人があったわけではない。

 しかし、谷寿夫を銃殺するに当って、二人の「殺人競技」は「南京大虐殺とワン・セット」の中に収められていたことがよくわかる。‥(中略)‥。

 中国側の「論告求刑」では、「大虐殺」の背景などについてふれる部分は、全くなかった。日本軍は唯ひたすらに南京の全地域で暴行虐殺を行ったことがすさまじい形容詞で描かれ、特に「二人の士官による殺人競技」は、「南京大虐殺」に欠かすことのできない「明白な証拠」のある事件と認定された。これらの「虐殺」を「ほったらかして聞かないふりをし、部下に勝手なことをやらせた(均置若罔聞、任使部髑肆虐如故)」からこそ、谷寿夫は「大虐殺」の主犯として南京雨花台で銃殺され、このことによって、「大虐殺」も成立したのである。」

(鈴木明,「南京大虐殺」のまぼろし,309-311,ワック,2006

 

 

○ 「百人斬り競争」などあったはずがない

 70年前のこととはいえ,大砲や機関銃や小銃を撃ち合うのが戦闘の実態である.刀を振り回して斬り合う白兵戦など滅多にありはしない.しかも,向井少尉は歩兵砲小隊長であり,野田少尉は大隊副官である.

 昭和の軍刀は指揮や儀式に用いる程度で,工場で大量生産されたとのことである.その質は,人ひとりを切ったら後は使えない程度の代物だったらしい.両少尉の軍刀が日本刀だったとしても,数人を切るのが限度だと聞く.

 戦闘の実態から考えても,二人の少尉の任務から考えても,軍刀の質から考えても,日本の文化から考えても,「百人斬り競争」が作り話であることなど,誰にでもすぐ分かりそうなものではないか.

 他に、向井少尉は十二月二日に脚と右手に砲弾の破片を受けて負傷して加療し、十二月十五日頃に担架に乗って帰隊した、という事実もある.(「南京大虐殺」のまぼろし,65

 

[向井敏明少尉の遺書](辞世

 我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州に帰ります。我が死を以って中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善東洋平和の因ともなれば捨石となり幸です。中国のご奮闘を祈る 日本の敢奮を祈る 中国万歳 日本万歳 天皇陛下万歳 死して護国の鬼となります」

 

[野田毅少尉の遺書](死刑に臨みて)

 「此の度中国法廷各位、弁護士、国防部の各位、蒋主席の方々を煩わしました事につき厚く御礼申しあげます。只俘虜、非戦闘員の虐殺、南京大虐殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。お断りいたします。死を賜りました事に就いては天なりと感じ命なりと諦め、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。

 今後は我々を最後として我々の生命を以て残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願い致します。宣伝や政策的意図を以って死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或は抗戦八年の恨みを晴さんが為、一方的裁判をしたりされない様祈願いたします。

 我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を恨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります。何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願致します。中国万歳 日本万歳 天皇陛下万歳」

 

 

○ 記事を書いた浅海記者は創作であるとは証言しなかった

 向井少尉の実弟の猛氏は兄を救出するため,「百人斬り競争」の記事を書いた浅海一男記者(取材をしたのは光本記者)を有楽町の毎日新聞社に訪ねて証言書を書いてくれるよう頼んだ.彼はその時のことを,後になって次のように述べている.(鈴木明,「南京大虐殺」のまぼろし,100-101,ワック,2006

 「浅海さんは、たしかに好意的にいろいろ相談に乗ってくれました。しかし、肝心の部分を書いてくれないのです。浅海さんに書いて頂いたのは

@    同記事に記載されてある事実は、向井、野田両氏より聞きとって記事にしたもので、その現場を目撃したしたことはありません

A    両氏の行為は決して住民、捕虜に対する残虐行為ではありません。当時とはいえども、残虐行為の記事は、日本軍検閲当局をパスすることはできませんでした

B    両氏は当時若年ながら人格高潔にして、模範的日本将校でした

C    右の事項は昨年七月、東京に於ける連合軍A級軍事裁判に於て小生よりパーキンソン検事に供述し、当時不問に付されたものであります[水上記:下註参照]

という内容のものでしたが、私はできれば、あの記事は創作であると書いてほしかったんです。(中略)‥。今なら‥‥、今なら、土下座してでも、ウソだったと書いてもらったと思いますが‥‥」

 

[註]向井少尉は昭和二十二年四月に呼び出されて,東京市ヶ谷の国際軍事法廷検事局に出頭した.その時は同行した弟に、「本当のことを言ったら信用してくれたよ.百人斬りが本当でないことぐらい子供でもわかるさ」と言っていた.しかし,彼はそのまま帰らなかった.彼が南京の法廷に提出した上申書には,「合理的かつ科学的な審査により新聞記事を証拠として犯罪事実を認定することはできないとして釈放された」と書かれている.(鈴木明,南京大虐殺のまぼろし,67, 99-100,ワック,2006

 

[補足] 浅海記者の証言書と後出の富山武雄大隊長の証言書が南京に届いたのは,死刑判決が下された後だった.審理はたった一日だった.また,判決は審理が始まる前に印刷されていた.(稲田朋美,百人斬り裁判から南京へ,84, 87, 88,文春新書56620074月)

 

 

○「百人斬り競争」を提案したのは記者(野田少尉の第二上訴申弁書による)

 「十年以前のことなれば、記憶確実ならざるも、無錫に於ける朝食後の冗談笑話の一節、左の如きものもありたり。(中略)‥。

記者「貴殿の剣の名は何ですか」

向井「関の孫六です」

野田「無名です」

記者「斬れますかね」

向井「さあ。未だ斬った経験はありませんが、日本には昔から百人斬とか千人斬とか云ふ武勇伝があります。真実に昔は百人も斬ったものかなあ。上海方面では鉄兜(てつかぶと)を斬ったとか云ふが」

記者「一体、無錫から南京までの間に白兵戦で何人位斬れるものでせうかね」

向井「常に第一線に立ち、戦死さえしなければね‥‥」

記者「どうです、無錫から南京まで何人斬れるものか競走(争)してみたら。記事の特種(とくだね)を探してゐるんですが

(東中野修道,南京「百人斬り競争」の真実,25-27,ワック,2007

 

 

○「二人の名前を貸してあげませうか」(野田少尉の第二上訴申弁書による)

向井「そうですね。無錫付近の戦闘で向井二〇人、野田一〇人とするか。無錫から常州までの間の戦闘では向井四〇人、野田三〇人。無錫から丹陽まで六〇対五〇。無錫から句容まで九〇対八〇。無錫から南京までの間の戦闘では、向井、野田共に一〇〇人以上と云ふことにしたら。おい、野田、どう考へるか。小説だが。」

野田「そんなことは実行不可能だ。武人として虚名を売ることは乗気になれないね」

記者「百人斬り競走の武勇伝が記事に出たら、花嫁さんが刺(殺)到しますぞ、ハハハ。写真をとりませう

向井「ちょっと恥づかしいが、記事の種が無ければ気の毒です。二人の名前を借(貸)してあげませうか

記者「記事は一切、記者に任せて下さい

(東中野修道,南京「百人斬り競争」の真実,27-28,ワック,2007

 

 

○ 平成1年、毎日新聞が「百人斬りは事実無根」と認めた

 「問題にしなければならないことは、『東京日日新聞』の記事は、一つの史料であり、当然、史料の引用にさいしては、資料批判と検証が伴わなければならない。事実、鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』や、山本七平『私の中の日本軍』が、学問的に、新聞記事の内容を検証し、それが虚報であったことをも結論づけている。また、平成十三(二〇〇一)年春、野田少尉の遺稿が実妹の野田マサ氏の所蔵する書類箱の底から発見され、そこには「職務上絶対ニカカル百人斬競走ノ如キハ為ザリキ」と書かれていた。

 ところが、これまで多くの本が野田少尉の遺稿を無視して、みずからの論拠を『東京日日新聞』の記事に求めるのみで、(記事の)写真を南京大虐殺の証拠としてどれだけ掲載してきたことか(中略)‥。

 なお、東京日日新聞の後身である毎日新聞社は、『昭和史全記録Chronicle 1926-1989』(平1、一七八頁)に「百人斬りは事実無根だった」と記述していた。」

東中野修道,小林進,福永慎次郎,南京事件「証拠写真」を検証する,206-207,草思社,2005

 

[註] 「百人斬り競争」の記事は東京日日新聞に4回掲載されているが,たとえば4回目の記事の写真から見出しの「百人斬り“超記録” 向井106−105野田 両少尉さらに延長戦」が読み取れる.(同上,204-205

 

 

 

5.「百人斬り競争」報道および出版に対する訴訟

 

 

遺族が敗訴

 

(一審判決についての朝日新聞の報道)

 「旧日本軍の将校2人が戦時中の1937年に中国で「百人斬り競争」をしたとする当時の新聞報道や、のちにこの問題を扱った書籍をめぐり、遺族が「虚偽の事実を書かれ、名誉を傷つけられた」などとして、朝日、毎日両新聞社と本多勝一・元朝日新聞記者らを相手に出版差し止めや謝罪広告の掲載、計3600万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が23日、東京地裁であった。土居章大裁判長は請求をすべて棄却した。

 当時少尉だった将校2人の遺族が034月に提訴。37年当時、両少尉が中国兵を日本刀で殺害した人数を競う「百人斬り競争」をしたと報じた東京日日新聞(現・毎日新聞)の記事と、本多氏が執筆し、朝日新聞社が(水上補:1972年に)出版した書籍「中国の旅」と「南京への道」の記述などを問題とした。

 原告の「死者への敬愛追慕の情を侵害した」との主張について、記事は「両少尉が記者に百人斬り競争の話をしたことがきっかけで掲載された」などと認定。「本多氏が論拠とした関係者の著述なども一概に虚偽とは言えない」などとして、書籍の記述が「一見して明白に虚偽だとはいえない」と判断した。」

2005.8.24 朝日新聞)

 

[寸評] 上の新聞記事では,百人斬り競争があったというのは南京攻略戦中でのことであることを伏せ,2人の将校が戦犯として処刑されたという重要な事実も隠し,この訴訟がありふれた名誉毀損の訴訟であるかのように装っている.しかし,2人の将校は,「南京大虐殺」の象徴として中国および日本の青少年の教育の教材として使われ,南京大屠殺記念館や中国各地の抗日戦争記念館に虐殺者として大きな写真を展示されているのである.また,朝日新聞社は本多氏の書籍を出版しただけのように書いているが,「中国の旅」は1971年に朝日新聞に連載されていたのである.

 仮に記者が百人斬り競争の話を実際に聞いていたとしても,それを真に受けたとすれば愚かである.したがって,東京日日新聞の記事は当時としては他愛もない戦意高揚のための創作記事であったとみなしてよかろう.しかし,その他愛もない記事が中国国民党に悪用され,結果として2人の将校を刑死に追いやったのである.そして,遺族たちは「戦犯遺族」として戦後を必死で生きてきた.現・毎日新聞社に責任なしとは言えまい.

 本多氏と朝日新聞社の罪はさらに重い.事実を冷静に報道できる平時にあって,安易に伝聞に頼って戦闘行為を殺人競争へと残虐性をさらに強めた虚報(意図的なのかもしれないが)を流したのである.そのために,原告の一人向井千恵子さんは人殺しの娘として迫害を受け,離婚にまで追い込まれている.また,この「中国の旅」を端緒として南京大虐殺説が再燃したのである.中国が南京大屠殺記念館や抗日戦争記念館を作り,南京大虐殺を対日外交カードに使い始めたのはその後だということも忘れてはならない

 上の記事から判断すると,地裁判事たちは「百人斬り競争」が実在したと認識しているようである.控訴審判事諸氏よ,野田少尉と向井少尉の汚名と無念を晴らせ!

(参考文献)

・稲田朋美,「百人斬り」大虚報に頬かむりしてきた朝日・毎日の報道責任,正論,平成157月号,60-67

・水間政憲,発掘資料が明かす朝日、毎日「百人斬り」報道の虚構,正論,平成174月号,298-310

 

(控訴審判決についての朝日新聞の報道)

 「旧日本軍将校2人が中国で1937年、中国兵を日本刀で殺害した人数を競う「百人斬り競争」をしたとする当時の新聞報道や後にこの問題を扱った書籍を巡り、2人の遺族が「うそを書かれ名誉を傷つけられた」と訴えた訴訟の控訴審判決が24日、東京高裁であった。遺族は毎日新聞社、朝日新聞社などと本多勝一・元朝日新聞記者を相手に出版差し止めや計1200万円の損害賠償などを求めていたが、石川善則裁判長は請求を却下した一審・東京地裁判決を支持。遺族の控訴を棄却した。遺族側は上告する方針。

 焦点は「何が真実かをめぐって論争を呼ぶような歴史的事実に関する表現が、個人に対する遺族の敬愛追慕の情を違法に侵害したか」だった。判決は、違法に侵害したと言える前提として「摘示された事実の重要な部分が全くの虚偽であることが必要」と基準を示しそれぞれの記述は全くの虚偽とは言えないと判断。遺族側の主張を退けた。

 問題になったのは東京日日新聞(現・毎日新聞)の記事と本多氏が執筆、朝日新聞社が出版した書籍「中国の旅」と「南京への道」などの記述。」

2006.5.25 朝日新聞)

 

(上告審判決についての朝日新聞の報道)

 「旧日本軍将校2人が中国で1937年、中国兵を日本刀で殺害した人数を競う「百人斬り競争」をしたとする当時の新聞報道や、後にこの問題を扱った書籍を巡り、2人の遺族が「うそを書かれ故人を慕う遺族の気持ちを傷つけられた」などとして、朝日、毎日両新聞社などと本多勝一・元朝日新聞記者に出版差し止めや計1200万円の損害賠償などを求めた訴訟の上告審で、最高裁第二小法廷(今井功裁判長)は22日、遺族側の上告を棄却する決定をした。朝日新聞社などの勝訴が確定した。

 二審・東京高裁は「百人斬り」を報じた当時の記事について「全くの虚偽であると認めることはできない」と認定し、請求をすべて棄却した一審・東京地裁判決を支持した。」

2006.12.23 朝日新聞)

 

[寸言] 朝日新聞は勝訴したのに,こんなベタ記事を一つ出しただけである.なぜ大はしゃぎしないのか.少し前,卒業式や入学式における国旗掲揚・国歌斉唱妨害に対して処分を受けた東京都教員が提起した訴訟で,教育基本法違反という地裁判決が出た.そのときには,一面トップ記事で,また,他の面も使ってはしゃいだではないか.判事は中国を恐れたのであろうが,朝日は日本人の怒りが怖くて,ひたすら低姿勢で嵐が過ぎるのを待つつもりなのだろう.

 

 

○ 朝日新聞の報道の今昔

 「朝日新聞は南京で日本軍が大虐殺をしたと主張し続ける。この新聞によると昭和1212月、日本軍は南京を攻略したあと、子供はほうり上げて銃剣で刺し、女は片っ端から犯し、手足を切って陰部に棒を突っ込んで殺し、男たちは銃殺か生き埋めか、ともかくそれから六週間で市民三十万人を皆殺しにした、と。

 ということは休みなく毎日七千人ずつ殺していったことになる。それがお前ら日本人の父祖がやったことだとこの新聞は非難する。

 民族の性格はそうは変わらない。‥(中略)‥。だから朝日新聞が「日本人の行為」と書き立てる残虐行為に「いや違うだろう」と民族の血がいぶかしく思う

 現にそう書く朝日新聞の当時の報道記事(田中正明著「中国のうそ」)を見ると状況はまったく違う。南京城内のどこかで毎日七千人ずつ殺されていると今の朝日新聞が主張する同じ時期に、同じ市内の表通りで支那人の床屋が日本兵の散髪(1220日)をしているし、支那人の子供が日本兵と笑顔で戯れている写真(同21日付)もある。この子供はシャッターが落ちた次の瞬間、ほおり上げられて銃剣で刺し殺されるというのだろうか。

 21日付では「きのふの敵に温情」の見出しの記事と写真は置き去りにされた支那人傷病兵を日本の軍医が手当している。日本人の民族性にはこっちの方がしっくりくる。」

(高山正之,朝日の“英字紙”がやったこと,正論,平成189月号,96-97

 

[補足](通州での日本人虐殺に似る南京大虐殺)

 二百二十人を超える日本人居留民が虐殺された通州事件については既に紹介した.

 上の「朝日新聞の報道の今昔」に記された南京における残虐行為は通州における残虐行為に似ている.通州で何が行なわれたかはここでは述べないが,「鈴木明,「南京大虐殺」のまぼろし,pp.46-47」および「田中正明,「南京事件」の総括,pp.14-18」に説明があるので,興味のある方は参照されたい.それは中国人には珍しいことではないが,通州事件は日本人を憤激させ,その後の日中関係に大きく影響した

 南京で行なわれたとされる虐殺は日本人には違和感がある.これに対して,二つの虐殺事件が似るのは,中国人は日本人のことも日本の歴史もよく知らないので東夷の日本人は自分たちと同じかそれ以上に野蛮なことをすると思っているからだ,という見方がある.これについては,後で紹介する.

 

[註] 小学館発行の日本歴史大事典には,「通州事件」の説明の最後に「日本国内では中国側の暴虐として過大に宣伝され、日中戦争のその後の経過に微妙に影響した」と書かれている.二百人以上の邦人の惨殺の報道は,いかに大袈裟であっても過大であることなどありえまい.担当執筆者の鈍感さには驚きを禁じえない.

 

 

○ 齟齬が生じたときに新聞社がするべきこと

 「新聞にはこういう齟齬が往々ある。そういうとき普通の新聞社なら調査部にいって別の資料を探し出して、どちらが正しいか、確認するものだ。

 南京のケースで言えば、ベイツとかラーベとかの伝聞もあるが、例えば朝日新聞自身が書いているように南京陥落の一週間後に大宅壮一や作家の石川達三、画家の小磯良平らの報道班員と朝日を含む各社の百二十人の従軍記者、カメラマンも南京入りしている。

 朝日によれば毎日七千人ずつ殺しているのだから、その日には五万人分の死体がたまっている。朝日は「中国側の団体が死体を埋葬した」と言っているから、死体はまだその辺に放置されていたことになる。

 おまけに日本軍はその日の分の七千人を殺す作業があって、その中に女がいれば犯さなければならないし、そのあとに陰部に突っ込む棒も探さなければならない。物すごく忙しくしていたはずだ。

 だから大宅壮一も石川達三も百二十人の従軍記者、カメラマンもみなそれを目撃していたはずだから、じかに取材すればいい。

 しかし本多勝一が「中国の旅」を書いていたころ、朝日新聞が存命していた彼らを取材したという話は聞かない。もっと言えば本多勝一が南京大虐殺の序章と位置付けた「百人斬り」の二人の将校を撮影したカメラマン(水上補:佐藤振壽氏)は今も存命だ。ちなみに同カメラマンは「百人斬り」も四十日間続いた大殺戮もなかったと語っている

 普通の新聞ならそういう風に別の資料に当たり、取材し一歩でも真実に近づくよう、そして誤りがあればそれを訂正しておわびをするものだ。が、朝日新聞は断固としてそれをやらないし、注意してもきかない。

(高山正之,朝日の“英字紙”がやったこと,正論,平成189月号,97-98

 

 

○ 裁判における毎日新聞社の主張(一審原告側最終弁論から)

(稲田朋美,百人斬り裁判から南京へ,68-70,文春新書56620074月)

 

(「百人斬り競争の記事は真実である」)

 「(毎日新聞社が出版した『昭和史全記録』の)説明をよめば、毎日新聞社は事実を正しく認識し、百人斬りは「事実無根」と認めているのだ。にもかかわらず、法廷で「真実」だと主張した。

 あの馬鹿馬鹿しい武勇伝が真実ですって?耳を疑った。そこで私は大阪の事務所から東京地裁まで、重い『昭和史全記録』を持っていき(あまりの重さに怒りは倍増したのだが‥‥)、法廷で「毎日新聞にお伺いします。この本のなかで「百人斬りは事実無根だったと書かれているではありませんか。なぜこのときは事実無根と認めていたものが訴訟になると真実だということになるのでしょうか」と質問をした。

 すると毎日新聞の答えがまた驚くべきものだった。「『昭和史全記録』のなかの百人斬りは事実無根と書いたのは執筆者の勝手な見解であり、毎日新聞の正式な決済を得た公式な見解ではありません」というのだ。‥(中略)‥。疑問に思ったことを毎日新聞にぶつけてみた(裁判では「求釈明」という)。しかし、答えなし。裁判所も釈明を求めなかったが、わかったということか。この疑問は今も解けない。」

 

(「近代裁判で新聞記事を唯一の証拠として判決を下すはずがない」)

 「私たちの訴状に対する毎日新聞の訴状をみて、正直驚いた。まず、南京軍事裁判を近代裁判であったとし、近代裁判制度にあって新聞記事を唯一の証拠として判決を下すはずがないといってきた。

 毎日新聞は戦犯裁判について何もご存じないらしい。戦後連合国で行われた戦犯裁判はそのほとんどが証拠なし、人違いといったずさんな裁判であったが、「戦争に負けたからしかたがない」とその不当な裁判を受け入れて、一〇〇〇人を超す日本人が従容(しょうよう)として処刑されたのである。」

(稲田朋美,百人斬り裁判から南京へ,66-67,文春新書56620074月)

 

(「百人斬りは捕虜据えもの斬りではない」)

 「次に毎日新聞は「百人斬りは武勇伝であり、二人の少尉の名誉を貶めるものではない。あの記事を悪意で曲解して捕虜据えもの斬りだったなどというものはそのものに責任がある。‥(中略)‥」と主張した。

 ということは、毎日新聞は本多勝一を「悪意で曲解した人」と認識していることになる。ここは私も同感だった。記事を書いた毎日新聞自身が「百人斬りは捕虜据えもの斬りではない」と否定してくれたことになるのである。」

 

(「新聞に真実を報道する法的義務はない」)

 「極めつけだったのは、毎日新聞が「新聞に真実を報道する法的な義務はない」と開き直ったことである。このときも驚いた。新聞の最大の使命は真実を報道することであると固く信じてきた私にとって、「新聞に真実を報道する義務はない」などといわれるとショックを受けてしまう。

 しばらく、その意味を考えて、毎日新聞は新聞ではないという結論に達した。」

 

[補足](毎日新聞が誤報を放置することは不法行為である)

 「被告毎日新聞社は、現在「百人斬り」の記事と写真が中国の南京大虐殺記念館をはじめ多くの抗日記念館、中国の教科書、多くの書籍に「事実」として掲載され、南京大虐殺の象徴となっていることについて、「自分たちの責任ではない。記事を誤って引用している者たちの責任である」と主張しました。

 しかし、南京大虐殺の象徴、あるいは動かざる証拠として毎日新聞の記事が展示され、引用され、インターネットで全世界に発信されている現状を放置することは、現在進行形でその記事を報道しているのと同義なのです。」

(稲田朋美,百人斬り裁判から南京へ,174,文春新書56620074月)

 

 

○ 裁判における朝日新聞社と本多記者の対応(一審原告側最終弁論から) 

(稲田朋美,百人斬り裁判から南京へ,173, 175-177,文春新書56620074月)

 

(唯一の提出証拠は私家版の一書) 

 「日本のマスコミ界、新聞界を代表する朝日新聞社は、その強大な取材力を駆使し、多くの南京戦従軍者や両少尉の関係者を取材し、唯一「百人斬り」を裏付ける証拠として『私の支那事変』(水上註:望月五三郎著,1985年刊の私家版)という一冊の本を提出したのみです。この本が二〇〇ヶ所以上誤りのある信憑性のないものであることは阿羅健一氏の意見書等で明らかにしておりますので、繰り返しませんが、朝日新聞社の強力な取材力を駆使して証拠収集に奔走された結果得られた証拠が、依拠したという「覚書」の存在すら怪しい、本一冊のみであったことを強調したいと思います。

 被告朝日新聞社が真実を追求する新聞社なら本件のために取材した南京戦従軍者が「百人斬り」についてどのような証言をされたのかを明らかにすべきではないでしょうか。」(173ページ)

 

(証人申請にも応じず、陳述書すら提出しない)

 「被告朝日新聞社は、昭和一二年の「百人斬り」も「捕虜据えもの百人斬り」も真実であり、二人は南京城内に入ってからも中国人を斬っていたと本件訴訟において新たな名誉毀損を行いましたが、その根拠を示していません。目撃もしていない記者が真実であると言ったとか野田少尉が郷里の新聞を否定しなかったという間接的な根拠を主張するのみです。「中国の旅」が連載された当時であれば、両少尉と同じ部隊に所属する元日本軍兵士も多く生存し、それらの人々の証言を聞くこともできたはずですが、その人々にいっさい取材し検証することなく、両少尉の残虐行為を書き立てた被告本多及び被告朝日新聞社の責任は重いと言わざるをえません。被告本多はこの法廷でいかなる根拠と資料で「殺人ゲーム」「捕虜据えもの斬り」を記載したかを明らかにすべきでありましたが、原告らの証人申請にすら応じず、陳述書すら提出しないということは、自ら根拠なくそれらの記述をしたことを認めたことでもあります。」(175-176ページ)

 

(根拠として南京城内の捕虜の処刑を持ち出す)

 「さらに被告朝日新聞社は「捕虜据えもの百人斬り競争」が真実であることの根拠として南京城内の捕虜の処刑を持ち出していますが、両少尉が行ったとされる「百人斬り競争」は南京陥落前の昭和一二年一一月二九日から一二月一一日までの日時と場所、対象となった中国兵の数を特定した競争であり、南京城内の捕虜の処刑とは何の関係もありません。本件は、南京大虐殺があったかなかったかという歴史論争や南京城内の捕虜の処刑が国際法に違反するかどうかを確定するための裁判ではありません。一つの虚報が原因となって、「殺人ゲーム」「捕虜虐殺競争」という残虐行為を行ったとされ、南京大虐殺の実行犯に仕立て上げられた両少尉について真実を明らかにし、遺族の名誉と人権を守る訴訟なのです。」(176-177ページ)

 

 

○ 一審の不当な訴訟指揮と不条理な判決(控訴審原告側冒頭陳述から)

 「原判決は、‥(中略)‥、『重要な部分について、一見して明白に虚偽であるにもかかわらず、あえてこれを摘示した』などという過去の判例にもみられないような、非常識に重い要件を課したうえで、立証責任を遺族側に負わせることにより、遺族らの人格権侵害を放置する(見殺しにする)ことにしたのである。前述のとおり良識ある日本人なら『日本刀で一〇〇人以上の中国人を斬り殺す』などということがいかに荒唐無稽な作り話であるかを一瞬にして見抜くことができるはずであるが、原審の裁判官らはその荒唐無稽さが理解できないくらい目が曇っているのか、それとも三人の名もなき高齢の女性たちの人権を擁護する判決を書いた場合の社会的影響の大きさを政治的に判断した結果なのか、結果として極めて理不尽な結論を出した。この判決により、虚偽のつくり話が大手を振って、南京大虐殺の象徴として歴史に残り、三人の遺族らは生涯人権を侵害し続けられるのである。しかも原審は控訴人らが申請した多くの証人を採用せず(‥省略‥)、表現の自由を主張する執筆者である本多勝一氏の当事者尋問も採用せず、人権侵害を受けている被害者である控訴人らの当事者尋問も採用しなかった。極めて不当な訴訟指揮である。」

(稲田朋美,百人斬り裁判から南京へ,189-190,文春新書56620074月)

 

[補足] 高裁もたった一日の審理で弁論を打ち切った.「なかった」ことの証明はきわめて難しく,「悪魔の証明」と呼ばれるそうである.

 

[参考](民法は死者に対する名誉毀損を認めない)

 「日本の通説、判例は民事訴訟において死者に対する名誉毀損を認めていない。つまり、「百人斬り競争」が虚偽だということを明らかにして、向井、野田両少尉の名誉を回復することを裁判所に求めることはできない。裁判所は、今生きている人の法益を守るところだからだ。‥(中略)‥。

 裁判を起こすためには向井、野田両少尉の名誉毀損ではなく、

  @「百人斬り競争」が虚偽であることをこちらで立証したうえで

  Aそれが遺族の人格権を侵害している

という二段構えにしなければならない。

 生きている人に対する名誉毀損であれば「真実である」ことを名誉毀損した側が立証しなければならないが、死者に対する名誉毀損の場合、「虚偽である」ことを遺族側が立証しなければならないというのが通説、判例(下級審)である。

 つまり「百人斬り競争」は「なかったこと」を遺族側が立証しなければならないのだ。」

(稲田朋美,百人斬り裁判から南京へ,48-49,文春新書56620074月)

 

 

控訴審判決は南京裁判を追認した

 「戦争を経験した山本七平氏は、《戦場の体験者には(この記事は)全く「ばかばしくてお話にならない」と言い切っていた。私には戦争の経験はないが、そんな私でも「百人斬り競争」の連載記事は戦意昂揚の記事としてしか読めなかった。多くの人が内心では「そんな馬鹿な」と思っている、と思っていた。

 そのような認識は偏った一方的なものだったのであろうか。そう思わせる出来事が、つい最近(平成十八年五月)起きた。「百人斬り競争」の記事を唯一の証拠に処刑された両少尉のご遺族が、冤罪(えんざい)を明確にしておきたいと訴えた裁判において、次のような判決(東京高裁)が出たのである。

 《南京攻略戦当時の戦闘の実態や両少尉の軍隊における任務、一本の日本刀の剛性ないし近代戦争における戦闘武器としての有用性等に照らしても、本件日日記事(注/東京日日新聞の掲載記事)にある「百人斬り競争」の実体及びその殺傷数について、同記事の内容を信じることはできないのであって、同記事の「百人斬り」の戦闘結果は甚(はなは)だ疑わしいものと考えるのが合理的である。

 しかしながら‥‥両少尉が、南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては、「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず、‥‥「百人斬り競争」を新聞記者の創作記事であり、全くの虚偽であると認めることはできないというべきである》(中略)‥。

 これは、両少尉に死刑を宣告した五十九年前の「南京裁判」と、本質的に変わらない判決であった。」

(東中野修道,南京「百人斬り競争」の真実,22-24,ワック,2007

 

[寸評] 一般に判決文は難解である.特に判決の論理がおかしいと,まるで解らない.

 例えで説明しよう.火の無い所に煙は立たぬという.「百人斬り競争」を「火」とすると,高裁判決の論理は「火があったとは認められない.しかし,火があったという噂があるということは,煙が立つくらいのことはあったはずだ」となるのではないか.こんな論理は成り立つまい.問題は「火があったか否か」だったはずである.火が無かったのなら,煙が立ったか否かはもはや論外であるし,煙が立ったであろうという推測には信憑性がない.さもないと、「疑わしきは罰せず」という裁判の原則に反してしまう.

 逆に「百人斬り競争」を「煙」だとすればどうなるだろうか.問題は「煙が立ったというのは本当か」になる.もしそうなら,判決は「煙が立ったことは事実としては信じられないが,そういう噂の存在は火があったことを示している」と述べたことになる.やはり,一度は否定した噂を根拠として別件で濡れ衣を着せたのである.

 

 

○ 裁判所の苦しい理由付け

 「つまり、裁判所は「百人斬り競争」の記事を「信じることはできない」「甚だ疑わしい」と認めているのだ。これは「百人斬り競争」の記事を「疑わしい」とした一審判決からさらに踏み込んだものである。

 裁判所も「百人斬り」を「信じていない」、つまり虚偽であると考えたのだ。ではなぜ、遺族らが敗訴したのか。

 それは「全くの虚偽であると認めることはできない」からである。しかし一般人が素直にかんがえれば「信じることはできず、甚だ疑わしいもの」というのは「虚偽」と同義である。

 これを「全くの虚偽とはいえない」と結論づけるところに論理の飛躍がある。あまりにもハードルが高いというか、意味不明である。反対にいえば「全くの」という修飾語をつけなければ「虚偽であること」を否定できないところに裁判所の本音があるのだと思った。」

(稲田朋美,百人斬り裁判から南京へ,191-192,文春新書56620074月)

 

[寸言] 歯に衣(きぬ)を着せずに言えば,裁判官は原告を勝たせたくなかったのである.そのために,高いハードルを設定し,まともな弁論をさせなかったのである.弾劾裁判を検討するべきであろう.

 

 

○ 現状を是正するのは政治家の務めではないか 

 「もしかしたら裁判所はボールを私に投げてよこしたのかもしれない。

 東京日日新聞が報じた「百人斬り競争」は限りなく白に近い灰色である.それが歴史的事実として、つまり真っ黒として中国各地の抗日記念館に展示され,中国と日本の教科書に書かれ,子供たちに教えられていることを是正するのは、裁判所の役割ではなく,政治家の務めではないのかと。

 それを是正してこなかった政治家が怠慢だったのではなかったのか。」

(稲田朋美,百人斬り裁判から南京へ,195,文春新書56620074月)

 

[註] 稲田氏は平成17年のいわゆる郵政選挙で「刺客」として立候補し,衆議院議員に当選した.

 

 

○ 検証の原点が見落とされていた!

(東中野修道,南京「百人斬り競争」の真実,30-32,ワック,2007

 

(野田少尉は「記者には一度しか会っていない」と主張)

 「野田少尉の上訴申弁書は、死地に赴(おもむ)く人の心からの叫びとしか思えない。もう一度読んでみよう。両少尉は記事が出るまで、記者とは一度しか会っていなかった、その一度会ったときの冗談話を基に、記者たちはその後四回も記事を創作した、と叫んでいた

 その叫びはウソだったのであろうか。「百人斬り競争」は、論点がすでに出尽くしており、その結果が東京高裁の判決であった。何か大事な論点が論じられないまま残っていたであろうか。‥(中略)‥。

 すると二つあった。一つは、肝腎要(かんじんかなめ)の論点、つまり両少尉は記者たちからたった一度しか取材を受けていなかったという「上訴申弁書の当否」が、不思議なことに、これまで一度も論議されることはなかった。鈴木氏や山本氏も含めて、従来の論争は、新聞記事は創作か否かという点に集中しているようであった。記者が両少尉と会っていたかどうかの追究は、なされていなかった。」(30-31ページ)

 

(報道記事の内容と両少尉がいた戦場の実態とが未照合)

 「そして二つめは、東京日日新聞の記事の内容と、両少尉の直面した戦場の実態との照合も、まったくなされていなかったことである。

 新聞記事は第一報が「常州にて二九日発」、第二報が「丹陽にて三日発」、第三報が「句容にて五日発」、第四報が「紫金山麓にて十二日発」となっている。

 従って、記者たちが(記事を創作したのではなく)「常州」「丹陽」「句容」「紫金山麓」で両少尉に会って取材し「百人斬り競争」を記事にしたというのであれば、言うまでもなく両少尉に会っていなければならなかった。もし会っていなかったのであれば、おのずと結論は事実無根の創作記事ということになる。まさに研究の肝腎な原点が見落とされていた。そして、両少尉はどのような戦場にいたのかも不問のままに論争がなされてきた。」(31-32ページ)

 

 

○ 「行ってもいない所で殺人競争はできぬ」―両少尉の足取りを検証せよ

 野田少尉は上訴申弁書で,「紫金山にも南京にも行っていない.行ってもいない所でどうして殺人競争ができようか」との趣旨を述べている.両少尉が所属していた大隊の富山大隊長も証言書でそれを保証している.いまさらの感はあるが,両少尉の足取りの実証が必要である

 

 

○ 陣中日誌や詳細な地図などが見つかった

 「近年になって、両少尉と同じ富山(とみやま)大隊―歩兵第十六師団(京都)第九連隊(京都)第三大隊―に所属していた大野俊治少尉(仮名)の『陣中日記』が出てきた。そしてまた、富山武雄少佐の率いる第三大隊とほぼ同じ戦場を進撃していた、同じく京都第十六師団の歩兵第二十連隊(福知山)第一大隊の第四中隊が編集した『陣中日誌』も出てきた。さらに、東京日日新聞のカメラマンであった佐藤振寿氏の当時の日記も出てきた。これらは日々の出来事を記憶の最も鮮明なときに記した一級資料であった。

 さらに、幸いなことには、昭和十二年に参謀本部陸地測量部が作製した詳細な地図が偶々(たまたま)古書店で入手できた。‥(中略)‥。この地図のおかげで『大野日記』などに出てくる小さな村も、その位置のほとんどが確認できるようになったのである。」

(東中野修道,南京「百人斬り競争」の真実,32-33,ワック,2007

 

 

○ 両少尉の上訴申弁書の当否が証明できる!

 「これらの史料を基に、地図上に両少尉の進んだ地名を辿りながら、両少尉はどのような戦場をどのように進撃したのか、一つずつ調べていくことから、検証を始めた。そうしていくと、思いもしなかったことが見えてきた。ようやく両少尉の残した上訴申弁書の当否が証明できることになったのである。」

(東中野修道,南京「百人斬り競争」の真実,33,ワック,2007

 

 

○ 第二報(丹陽にて)と第三報(句容にて)は創作

(東中野修道,南京「百人斬り競争」の真実,67, 88-91,ワック,2007

 

(十二月九日まで両少尉は離れ離れだった)

 「第二報、第三報ともに、これを読むと記者たちが(丹陽と句容で)両少尉に会って話を聞き、記事を書いたことになっている。」(67ページ)

 「これまで見てきたように、十二月一日から九日まで両少尉は離れ離れであった。このような状況のなか、記者たちは両少尉に会うことはできなかった。会うことなく、記者たちが両少尉の記事を書いたのであれば、それは創作だと判断されるのだが、しかし次の反論が出るかもしれないので、もう少し慎重に論じておかねばならない。すなわち、両少尉がたとえ離れ離れの場所にいたとしても、記者たちが一方の少尉に会って、その少尉が話したことを記事にしたまでではないのか、と。

 確かに、こう考えると、戦後の浅海記者の証言のなかに、「記者が記事を創作した」という言葉がなかったこともうなづけてくる。

 そこで、今度は、記者たちがどちらか一方の少尉に会っていたかどうかを、追究しなければならない。‥(中略)‥。」(88-89ページ)

 

(記事では両少尉は丹陽と句容に入城しているが‥‥)

 「記者たちは向井少尉に「丹陽入城後」に会ったと書いていた。それをもう一度引用しよう。

 《記者等が丹陽入城後息もつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る》

 ‥(中略)‥、この記事では京都第九連隊の向井少尉が「丹陽中正門」に一番乗りを行ったかのように(水上註:野田少尉は軽傷を負ったとも)書かれている。‥(中略)‥。

 第三報(句容にて五日発)もご覧いただくとお分かりのように、ここでも「向井敏明、野田毅少尉は《句陽入城にも最前線に立って奮戦》となっている。」(89-90ページ)

 

(実際には両少尉は丹陽にも句容にも入城しなかった)

 「しかし、これまで見てきたように、野田少尉も向井少尉も「丹陽城内」に入城することはなかった。向井少尉(水上補:が加わっていたはずの富山大隊の一部)は午後一時四十五分「丹陽」東方(城外)にある「丹陽駅」を占領したのち、「丹陽」に入城することなく北上していった。また野田少尉のいる富山大隊本体も「丹陽」に入城することなく、遠く「西北方」に向かって進撃していた。‥(中略)‥。

 京都第十六師団の中島師団長は『陣中日誌』に「草場部隊は右まわりして句容−湯水道方面に向かい、句容の敵の側背に迂回した。このため句容に入ることができずに祝家辺に止まると書いていた。つまり、草場旅団(京都第九連隊と福知山第二十連隊)は「句容」に入城していなかった。もちろん、京都第九連隊の両少尉も「句容」に入城していなかった。」(90-91ページ)

 

(第二報と第三報は創作である)

 「記者たちが両少尉に会うことなく記事が書けたということは、創作以外のなにものでもない。まさに野田少尉の第二上訴申弁書にあるように、《記事は一切、記者に任せて下さい》と記されていたとおりであった。だからこそ、記者たちは両少尉に会って話を聞くこともなく、自由に第二報と第三報を創作できたのである。」(91ページ)

 

 

○ 第四報(紫金山麓にて十二月十二日発)も創作

(東中野修道,南京「百人斬り競争」の真実,95-97, 107-108, 111-113, 115, 120,ワック,2007

 

(第四報記事の要点)

 「第四報には二つの場面が描写されている。

 一つは十二月「十日正午」両少尉が日本刀を片手に対面し、「百六対百五」というお互いの記録を述べ合っている場面である。もう一つは十二月「十一日昼」南京城外の紫金山で敗残兵狩り真最中の向井少尉が、「百人斬りドロンゲーム」の?末を語ったのち、敵弾の飛来する中で百六の血を吸ったという日本刀を記者に示したという場面である。

 これからすると、記者たちは「十日正午」に「両」少尉に、「十一日昼」に「向井」少尉に(水上補:紫金山で)会っていたことになる。」(95-97ページ)

 

(十二月九日から十二日は激戦の最中)

 「以上、両少尉の属する第三大隊の戦場は直接見られなかったが、その南西で戦っていた坂清中隊長の率いる第四中隊は十二月十三日の南京陥落を前にして、これまでにない激しい戦いを繰り広げていたことがうかがえるであろう。

 このような戦場において、果たして記事にあるように「十日正午」に両少尉が日本刀を片手に対面し、「百六対百五」という互いの記録を述べ合うことができたであろうか。そこに記者が居合わせることができたであろうか。「十一日昼」に紫金山で敗残兵狩り真最中の向井少尉が、「百人斬りドロンケーム」の?末を語ったり、その一方、記者たちは飛来する敵弾をかいくぐり「百六の血を吸ったという日本刀」を示す向井少尉に会い、その話を聞いたりできたであろうか。

 戦況と照らし合わせたとき、記事の一文一文を繰り返し読んでも、それが事実とは思えないが、読者はどう読まれたであろうか。」(107-108ページ)

 「このように、中国軍の攻撃は日本軍に勝るとも劣らなかった。その攻撃の激しさはこれまでも触れてきたが、‥(中略)‥。

 以上、中国軍の動向と戦闘をいくつか見てきたが、そのようななか、両少尉は南京裁判の判決が言うように、殺人競争を「娯楽となし」得たであろうか。そのようななか、「鋭利な刀を振るう」ことができたであろうか。そのようななか、《老若ヲ問ハズ人ヲ見レバ之ヲ惨殺シ》というその「人」が非戦闘員であったはずはないのである。」(111-113ページ)

 

(第四報に掲載された写真の撮影日は十一月二十九日か三十日)

 「第四報には両少尉の写真が掲載されていた。その写真の横下には、小さく《常州にて佐藤(振)特派員撮影》と書かれていた。この写真は‥(中略)‥、十一月二十九日(または三十日)に「常州中山門」を背景に佐藤振寿カメラマンが撮影したものだった。ただ、「常州中山門」が見えたのでは「紫金山麓」とは合致しないため、写真の上部の左右、すなわち「門」と分かる部分がカットされて掲載されていた。」(115ページ)

 

(掲載写真は第四報が創作であることを証明する)

 「十一月二十九日発の第一報は、たしかにそのとき写真を撮影していたから、それが両者(記者たちと両少尉)が会っていたことを裏付ける物証となっていた。しかし十二月十二日発の第四報には、そのとき会って撮られたかのように十一月二十九日(または三十日)撮影の写真が掲載されたため、逆に、両者が出会っていなかったことを裏付けていた。記者は、「百人斬り」突破の記念撮影を行いたくとも、三者が会っていなかったから撮影できず、十一月二十九日(または三十日)撮影の写真を使わざるをえなかったのである。」(120ページ)

 

 

○ 掲載写真がもたらした錯覚

 「この写真が著しい効果を発揮する。すなわち写真は、両少尉が実際に日本刀を持っているという事実を示していた。もし両少尉の写真がなかったならば、また両少尉が日本刀を手にしていなかったならば、見る者に、かなり違った印象を与えたであろう。

 そしてさらに効果を発揮したのが、《十日正午‥‥日本刀を片手に対面した》という記事であった。実際には記者たちは第二報以降両少尉と会っていなかったにもかかわらず、この写真によって、出会っていたかのような錯覚をもたらした。第四報の《紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作って十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した》という記事とこの写真が一対になって、南京裁判の判決の言う「事実」となり、ひいては「百人斬り」が真実であるかのごとくになっていったようだ。」

(東中野修道,南京「百人斬り競争」の真実,115-117,ワック,2007

 

 

○ 「百人斬り競争」の記事が創作だったという証拠はあった!

 「ここで、原点に立ち返って考えてみよう。両少尉が「俘虜および非戦闘員の連続屠殺」や「据えもの斬り」をしなかったという明らかな証拠はなかった。両少尉が「俘虜および非戦闘員の連続屠殺」や「据えもの斬り」をしたという明らかな証拠もなかった。しかし「百人斬り競争」の記事は記者たちの創作だったという明らかな証拠はあったのである。」

(東中野修道,南京「百人斬り競争」の真実,143,ワック,2007

 

 

○ 野田少尉と記者の再会はすれ違い(野田少尉の第二上訴申弁書による)

 「野田は麒麟門東方に於て、記者の戦車に搭乗して来るに再会せり。

記者「やあ、よく会ひましたね」

野田「記者さんも御健在でお目出度う」

記者「今まで幾回も打電しましたが、百人斬競争は日本で大評判らしいですよ。二人とも百人以上突破したことに□□□

野田「そうですか」

記者「まあその中(うち)、新聞記事を楽しみにして下さい。さよなら」

 瞬時にして記者は戦車に搭乗せるまま去れり。」

(東中野修道,南京「百人斬り競争」の真実,157,ワック,2007

 

[推理] 野田少尉は麒麟門東方で紫金山方面へ向かっていたと思われる記者と再会した.しかし,それは一瞬のすれ違いで数語を交わしただけである.富山大隊長の証言書にもあるように,野田少尉は十二月十二日には麒麟門東方にいたが,紫金山や南京の方向へは向かわず,引き返している.だからこそ,野田少尉は記者とすれ違ったのであり,その日は十二月十二日と推定される.読み取り不能の三文字を「します」とすれば,辻褄が合う.記者は「二人とも百人以上突破したことに 」と言い,紫金山麓へ到着後にそのような創作記事を打電したのであろう

 

 

○ そもそも向井少尉は負傷加療中だった

 

(野田少尉の第二上訴申弁書の記述)

 「向井は民国二十六年十二月二日、丹陽に於いて負傷しありて、新聞記載の紫金山麓の百人斬り競争の日付十二月十日、十一日、十二日頃は丹陽野戦病院に於て、入院治療中なり。

 次いで十二月十五日頃、丹陽より湯水砲兵学校に復帰せり。従って湯水以西南京城迄の地区に立ち入りたることなし。(ここまでは146ページ)(中略)‥。(以下は157-158ページ)

 尚、該記者は向井が丹陽に於て入院中にして不在なるを知らざりし為、無錫の対話を基礎として、紫金山に於いて向井、野田両人が談笑せる記事、及(および)向井一人が壮語したる記事を創作して発表せるものなり。

 右述の如く、被告等の冗談笑話により事実無根の虚報の出(い)でたるは、全く被告等の責任なるも、又記者が目撃をせざるにもかかわらず、筆の走るがままに興味的に記事を創作せるは一半の責任あり。」

(東中野修道,南京「百人斬り競争」の真実,146, 157-158,ワック,2007

 

(向井少尉の戦友の話)

 「戦友会の人たちは「百人斬り競争」をどう思っていたのか。戦友のお一人のB氏にもお話を聞くことができた。

 「いつも戦友会には出席していました。隊長(向井小隊長)が負傷されていたことは戦友のみんなが知っていました。隊長は負傷されていましたから、隊長の百人斬り競争など聞いたこともありません

 「そもそも私たち歩兵小隊に与えられた任務は、第一線の歩兵の後に下がった地点から、歩兵砲で敵を砲撃して、歩兵の突撃を支援することでした。私たちが歩兵のように突撃することはありませんでした

 「ですから、戦後、戦友会では、あんな馬鹿なことがあるものかといっていたものです」。」

(東中野修道,南京「百人斬り競争」の真実,9-10,ワック,2007

 

(富山大隊長の証言書)

 「向井少尉ハ昭和十二年十二月二日丹陽郊外ニ於テ左膝(ひざ)頭部盲貫ヲ受ケ離隊 救護班ニ収容セラレ 昭和十二年十二月十五日湯水ニ於テ部隊ニ帰隊シ治療ス」

(鈴木明,「南京大虐殺」のまぼろし,102,ワック,2006

 

 

 

6.「南京大虐殺」論争

 

 

○ 虐殺派、まぼろし派、中間派

 「日本国内では、「南京事件」をめぐる論争が繰り返されて久しい。この論争は、各論者の主張に見られる共通点を基準にして、いわゆる「虐殺派」、「まぼろし派」、「中間派」の間での論争として認識され今日に至っている。「虐殺派」とは、第二次世界大戦後の南京と東京の軍事裁判の判決に準拠して「南京事件」を告発する人々をいう。これに対し「まぼろし派」とは、南京と東京の軍事裁判の不当性を主張し、これらの裁判の判決文に描かれるような南京での「大虐殺」の不在を主張する人々である。そして「中間派」とは、必ずしも「虐殺派」か「まぼろし派」に区分できない人々をいう。

 「虐殺派」、「まぼろし派」、「中間派」に分類される各派の「南京事件」研究には、日本近現代史に対する「歴史観」が強く反映される。そしてこの「歴史観」は中国やアジアに対する「政治姿勢」へと連続する。‥(中略)‥。

 「まぼろし派」は「虐殺派」の主張は連合国の戦犯裁判と軌を一にし自国民の歴史の歩みをいたずらに卑下する「自虐史観」であると反発する。対外的な「政治姿勢」は、「虐殺派」と同様の「歴史観」をもって過去の侵略への反省を迫る中国への反発である。‥(中略)‥。「中間派」が「歴史観」と「政治姿勢」において、「まぼろし派」に親近感を持っていることは間違いない。

 「虐殺派」の代表は、一九六〇年代から「南京事件」に注目し、一九七二年に『南京事件』(新人物往来社)を発表した洞富雄氏であろう。さらに本書にも登場する笠原十九司氏や吉田裕氏が、代表的研究者である。‥(中略)‥。

 「中間派」を代表するのは、『南京事件―「虐殺」の構造』(中央公論社、一九八六年)を発表した秦郁彦氏であろうか。本書に登場する板倉由明氏も「中間派」といってよかろう。

 「まぼろし派」には鈴木明氏をはじめ、田中正明氏や東中野修道氏らがいる。」

(北村稔,「南京事件」の探究,11-13,文春新書2072001

 

[寸言] 単純化して言えば,「虐殺派」は左翼であり,「まぼろし派」と「中間派」は反左翼である.北村稔氏の上出書は,南京で大虐殺があったという認識がどのようにして出現したかを明らかにすることを目的としている.自身がどの派に組するかは伏せているが,言葉の端々から歴史観としては「虐殺派」側であることが伺われる.本「抜き書き集」が虐殺派の立場に立っていないことは,断るまでもあるまい.

 

 

○ 南京事件が急に話題になりはじめた頃

 「南京関係の本を初めて手にしたのは、たしか昭和六十(一九八五)年前後であったかと思う。そのころ南京事件が急に話題になりはじめたからだ。この年に中国では「南京大虐殺記念館」(侵華日軍南京大屠殺遭遇同胞記念館)が建設され、その入口には「犠牲者三十万人」と大書された。」

(東中野修道,小林進,福永慎次郎,南京事件「証拠写真」を検証する,8,草思社,2005

 

 

○ 大虐殺の有無についてのさまざまな見解

 「たとえば戦後、南京に行って証言を集めた本多勝一氏の『中国の旅』(昭47)は、「南京大虐殺は‥‥証言による報告のように、大量の南京市民や武装解除捕虜を無差別に殺した」と記していた。また、南京事件を研究した洞富雄氏は『南京大虐殺の証明』(昭61)に、南京は「城内外に現出した日本軍の暴虐行為による生き地獄」を経験したと記していた。さらに、秦郁彦教授の『南京事件』(昭61)は「数字の幅に諸論があるとはいえ、南京で日本軍による大量の〈虐殺〉と各種の非行事件が起きたことは動かせぬ事実であり、筆者も同じ日本人の一人として、中国国民に心からお詫びしたい」と記していた。

 一方、南京戦に従軍した同盟通信記者の前田雄二氏は『戦争の流れの中に』(昭57)のなかで、「占領後、難民区内で大規模の略奪、暴行、放火があったという外電が流れた‥‥私達は顔を見合わせた‥‥市内をマメにまわっている写真〔従軍カメラマン〕や映画〔記録映画のカメラマン〕の誰一人、治安回復後の暴虐については知らなかった‥‥無法行為があったとすれば、ひとり同盟だけではない、各社百名の報道陣の耳目に入らぬはずはなかった」と記していた。

 このようなさまざまな見解にとまどいながらも、中間に位置する秦郁彦教授の主張が、越えがたい大山のごとくに聳(そび)え、私たちの行きつくべき結論かと思えた。

 ところが、平成四(1992)年の夏、‥(中略)‥、南京戦に参戦したという将校にお会いする機会があった。‥(中略)‥。質問するだけの十分な知識もないまま、南京の日本軍についての話を聞いた。詳細は覚えていないが、氏が静かな口調で、「南京大虐殺など見たことも聞いたこともない」と漏らされたこと、真実が歪められていることに我慢がならないという趣(おもむき)であったことだけは忘れられない。」

(東中野修道,小林進,福永慎次郎,南京事件「証拠写真」を検証する,8-9,草思社,2005

 

 

○ 論争の端緒

 

(「中国の旅」)

 「日中友好が盛んに叫ばれ始めた昭和四十六年の六月に、『朝日新聞』の本多勝一記者が、未だ国交のなかった共産党独裁の中華人民共和国から入国を許され、約四十日あまりにわたって、日本軍から被害を受けたという人たちの声を集めながら、「戦争中の中国における日本軍の行動を、中国側の視点から明らかにする」という目的に立って取材を行った。それが「中国の旅」と題して同年八月末から十二月まで『朝日新聞』に連載される。翌年三月、それが単行本の『中国の旅』となって出版された。‥(中略)‥。

 このように、南京大虐殺の被害者の話が本多氏によって紹介されたが、その中には前述した『毎日新聞』の「百人斬り競争」が、中国人の語る話として、南京入城までのあいだに二人の少尉のどちらが先に百人を斬るか競争したという「競う二人の少尉」として、掲載されていた。これは当時日本人にとっては大変ショッキングな話であった。」

(鈴木明,「南京大虐殺」のまぼろし,318-319,ワック,2006東中野修道氏の解説

 

[寸評] 「中国側の立場から明らかにする」とは,被害者と称する姜(キョウ)という中国人の話をそのまま伝えるという意味である.しかし,本多記者が話を聴いた被害者は本物であろうか.また,その話は本当だろうか.閉鎖的な独裁国内で民衆の自由な声を聞き,真実を知ることができると考えたとすれば,本多記者は楽観的に過ぎる.ジャーナリスト失格である.今でも,中国へ行って虚偽の被害談を聞かされ,信じ込む観光客がいる.観光地には被害談を聞かせるのを仕事とする“語り部”がいるのである.

 

(ちょっと待て)

 「ちょっと待てよ、と思った。昭和四十六年十一月五日、「朝日新聞」に掲載された本多勝一氏の「中国の旅」のうち、南京事件における「競う二人の少尉」のくだりである。‥(中略)‥。僕は昭和十二年十二月前後の新聞をしらみつぶしに調べにかかった。」

(鈴木明,「南京大虐殺」のまぼろし,10-13,ワック,2006

 

[補足] このとき,鈴木氏は東京日日新聞の記事を知らず,二人の少尉が南京で処刑されたことも知らなかった(「南京大虐殺」のまぼろし,p.62).当然,罪状が「百人以上の捕虜および非戦闘員を斬殺し,さらに娯楽としてその数の多寡を競ったこと」であったことも知らない.洞富雄著「南京事件」に載っていた「戦闘中の百人斬り」と「中国の旅」の記事の大きな相違に驚いたのである.「中国の旅」に,「日本でも報道された有名な話」と書かれていたので,「当時の新聞をしらみつぶしに調べ始めた」のである.

 「中国の旅」に登場する中国人の話では,「百人斬り競争」は南京裁判における罪状とも違い

@  戦闘中の武勇伝が非戦闘時の殺人ゲームにされている

A  上官の命令で行われた

B  百人斬り競争が三ラウンド繰り返された

という形に誇張されている.(「南京大虐殺」のまぼろし,p.16

 

(「戦闘中の百人斬り」を「捕虜の据えもの斬り」に変えた本多勝一氏)

 「本多氏は『中国の日本軍』において「百人斬り競争」の記事を載せ、そして次のように解説する。(中略)‥

 まず両少尉の「百人斬り競争」の記事が出てくる。それに続いて、両少尉は《降伏を呼びかけられて塹壕から出てきた無抵抗の蒋介石軍兵士らを並ばせておいて、かたはしから斬ったという》と解説される。

 それからさらに写真が出てきて、《将校らは日本刀を持っているので、首を切り落とすことがもっとも普通に行なわれた》といった説明が続く。両少尉だけではなく、そこから日本軍全体にまで拡大して首切りは《もっとも普通に行なわれた》と言い、首を斬ったあとは《記念写真》が撮られ切り落とされた首は見せしめのため《並べてぶら下げ》られたと解説した。

 このように一連の写真を並べて示されると、志々目彰氏の発言を根拠にした本多氏の「据えもの斬り」競争が、あたかも事実であったかのような感にとらわれてこよう。南京裁判と同じく「初めから結論ありき」であって、「据えもの斬り」という新解釈を付加するために、あたかも写真が使われているかのようであった。」

(東中野修道,南京「百人斬り競争」の真実,139-141,ワック,2007

 

[註]志々目彰氏は,小学生のとき野田少尉の講演で「捕虜据えもの斬り」の自慢話を聞き,本多氏に話したのだという.ただし,そう言っているのは志々目氏だけである.野田少尉は「百人斬り」の話は全くしなかったと言う人や「迷惑で心外である」と言ったことを記憶している人はいる.(参考:稲田朋美,百人斬り裁判から南京へ,第3章,文春新書,2007428日発行)

 なお,「百人斬り競争」裁判において,志々目氏は陳述書を提出したが,本多勝一被告は彼を証人申請しなかった.反対尋問でボロが出るのを避けたものと思われている.原告側は志々目氏と本多被告本人の証人尋問を申請したが,拒否された.結局,本多被告は法廷に現れなかった.真実を明らかにする使命があるジャーナリストにあるまじき態度である.(稲田朋美,百人斬り裁判から南京へ,147-148,文春新書,2007428日発行)

 

[付言]「捕虜の据えもの斬り」を言い出したということは,「戦闘での百人斬り」が不可能だと認めたからであろう.

 

(日本側からの視点も必要)

 「事の真相はわからないが、かつて日本人を沸かせたに違いない「武勇談」は、いつのまにか「人斬り競争」の話となって、姿をかえて再びこの世に現れたのである。

 やや皮肉めいていえば、昭和十二年に「毎日新聞」に書かれたまやかしめいた「ネタ」が、三十四年の年月と日本、中国、日本という距離を往復して「朝日新聞」に残虐の神話として登場したのである。いわば、この「百人斬り」の話によって、ある「事実」が、地域を越え、年月を経ることによって、どのように変貌してゆくかという一つのケースを、われわれは眼前に見せつけられたわけである。

 ともあれ、現在まで伝えられている「南京大虐殺」と「日本人の残虐性」についてのエピソードは、程度の差こそあれ、いろいろな形で語りつがれている話が、集大成されたものであろう。被害者である中国がこのことを非難するのは当然だろうが、それに対する贖罪ということとは別に、今まで僕等が信じてきた「大虐殺」というものが、どのような形で誕生したのか、われわれの側から考えてみるのも同じように当然ではないのか。」

(鈴木明,「南京大虐殺」のまぼろし,16-17,ワック,2006

 

(異様すぎるものには、どこかに無理がある)

 「僕が、三十五年前に起った「南京事件」を改めて考えてみようと思った動機も、実は「朝日」に掲載された「百人斬り」の異様な印象がきっかけであった。異様すぎるものというのは、その「すぎる」部分に、どこか無理がある。本多氏が「朝日」に書いたルポは、そのネタとなった三十五年前の「毎日」の記事と比べて、‥(中略)‥、その印象は数十倍も強烈である。しかし、たとえ「戦闘中」であっても「上官の命令」でなくても、「一ラウンド」であっても、このような行為が現実にあったのだろうか?この「勇士」たちは、トーチカの中で機関銃で身がまえた敵に対して、どうやって日本刀で立ち向かったのであろうか?「勇士」である本人は、これを一体どう説明しているのであろうか‥‥。」

(鈴木明,「南京大虐殺」のまぼろし,61,ワック,2006

 

(二重に押された有罪の烙印)

 「二人の戦犯は、新聞記事を唯一の証拠として日中戦争の責任を担って、「日中友好のために」と、たった一つしかない命を潔く散らせた。しかし、いまその「日中友好」を推し進めている人たちから「残虐日本」の神話の主人公を押しつけられ、二重に「有罪」の烙印を押されたのでは、どうにも救われようがないではないか。」

(鈴木明,「南京大虐殺」のまぼろし,105,ワック,2006

 

(なんの躊躇いもなく南京大虐殺を宣伝したNHK)

 一九七二年八月十五日NHKテレビ『一九七〇年代われらの世界』のナレーションを紹介しよう.

 「三ヵ月にわたる上海の抵抗線を破るや、日本軍は堰(せき)を切ったように、国民政府の首都南京に迫った。戦後東京裁判に於て、国民がはじめて知った『南京の虐殺』はこの時に起った。虐殺は南京の到るところで、大規模に、或は小人数で、無秩序に行なわれた。その期間は、日本軍の侵入から占領後の二ヵ月に及び、殺害された中国兵と男女民間人は、三十数万とも四十数万ともいわれる。侵略戦争が如何に人間の心を荒廃させるものか。だが日本の民衆は、事件の片鱗も知らされなかった。」

(鈴木明,「南京大虐殺」のまぼろし,162,ワック,2006

 

(南京大虐殺に対する大きな疑問)

 「冷静に、真面目に考えていただきたい。歴史を書いたり、説明したりする「専門家」は、本気で「侵略戦争で荒廃した心」が、あの事件をひき起こしたと思っているのか?もし、昭和十二年に「荒廃した心」があの事件を引き起したのなら、昭和十三年にも昭和十四年にも、もっと大規模な「事件」が続発したはずである。しかし、少なくともわれわれはそういう大規模な「事件」が起きたということは耳にしていない。」

(鈴木明,「南京大虐殺」のまぼろし,164,ワック,2006

 

(残忍な薄笑いを浮かべて首を切り落とす?)

 「伝えられる「南京大虐殺」は、日本が過去百年間に行なった「恥ずべき行為」のうちでも、最大にして最も醜悪というべきものである。本多勝一氏の『中国の日本軍』によれば、「日本刀で首を切り落とす時の日本軍は、多くの場合残忍な薄笑い」すら浮かべていたという。

 しかし、なぜか日本の大部分の人は、具体的にその話を知らないし、また知ろうともしなかった。「恥ずべき話」は、もっぱら「東京裁判」において外国人から教えられ、また最近は「被害者」である中国人から教えられた。」

(鈴木明,「南京大虐殺」のまぼろし,163,ワック,2006

 

 

(血に狂った軍国主義の殺人狂?)

 「「南京事件」について、日本人の手で書かれたものは、それこそ無数にある。また、散発的にではあるが、「自分の眼で見た」という手記めいたものもある。(中略)‥。しかし、それらのごく少数の例外を除くと、「南京大虐殺」について書かれたもののほとんど全部は、外国人の書いたもの、ないし、中国人の告白を中心にしたものである。

 そして、戦後出たたくさんの「歴史」は、これらの資料をごく大ざっぱに鵜呑みにして「血に狂った日本軍が南京で三十数万人の無辜(むこ)の民を虐殺と書き続け「なぜそのような途方もないことが起ったのか?」という理由については、NHKではないが、ほとんどが「侵略戦争がいかに人の心を荒廃させるか」といった抽象的な表現で片づけられてきた。」

(鈴木明,「南京大虐殺」のまぼろし,163-164,ワック,2006

 

(まぼろし化した南京大虐殺)

 「「南京大虐殺」の真相追及が大々的にとりあげられたことが、戦後二回あった。一回は日本戦犯を血祭りにあげるための「極東国際軍事裁判」であり、もう一回が「日中友好」のために、日本の罪悪を総懺悔しようという運動に乗っての「告発」であった。そして、その告発は、幸か不幸か僕のもっていた「南京大虐殺」のイメージを「幻」にかえてしまった。このぼんやりとしたスクリーンを少しでも実像にかえていく作業は、やはり誰かがしなくてはならない。そして、いまの僕にいえることは、その「誰か」が「裁判」にも「告発」にも関係しない、ただ「人間」を信じる「誰か」でなければならない、ということだけである。」

(鈴木明,「南京大虐殺」のまぼろし,57,ワック,2006

 

 

○ 中国と台湾の研究書がもたらした新展開

 「日中戦争中の国民党の対外宣伝の実態は、中国と台湾の二冊の研究書により明らかになった。二冊の研究書は「南京事件」に焦点を絞った著作ではなく、著者たちの「南京事件」に対する関心は低い。しかし内容は、中国共産党と中国国民党が足並みを揃えて告発する、「南京事件」の「公式見解」を揺さぶる可能性を秘めている。「南京事件」が、国民党による「宣伝性を帯びた報道」の産物であった可能性を示唆するのである。」

(北村稔,「南京事件」の探究,36-37,文春新書2072001

 

 

○ 中国で刊行された研究書が述べていること

 「中国で刊行された研究書は、重慶抗戦叢書編纂委員会編『抗戦時期重慶的対外交往』(重慶出版社、一九九五年)である。日中戦争中の重慶で展開された対外政策の実情を各種の資料から跡付ける。‥(中略)‥。

 『抗戦時期重慶的対外交往』には、次のように述べられている。「一九三七年十一月、国民党中央部と国民政府軍事委員会が改組されて〔国民党〕中央宣伝部が成立し、その下に対外宣伝を専らにする国際宣伝処が設けられた。中央宣伝部副部長の董顕光が対外宣伝工作をとりしきり、曾虚白が宣伝処長となった。‥(中略)‥。」このほか、国際宣伝処の本部、支部、事業所がそれぞれに刊行物を出し通信社を設立したこと、国際宣伝処は蒋介石に直属して各地の党機関と政府機関を管轄して活動したこと、一九四〇年には国際宣伝処がロンドンでティンパーリーの著作を「公開発行」したことなどが、詳しく叙述されている。」

(北村稔,「南京事件」の探究,37-38,文春新書2072001

 

 

○ 台湾で刊行された研究書が述べていること

 「台湾で刊行された研究書は、王凌霄『中国国民党新聞政策之研究(一九二八一九四五)』(国民党中央党史委員会出版、民国八十五〔一九九六〕年)である。「新聞」とは中国語でニュースを意味し、南京国民政府成立以来の国民党のニュース管理(報道統制)の実情を跡付ける。筆者の王凌霄は、政治大学歴史研究所の修士課程に学んだ元新聞記者で、台湾の民主化風潮の中で修士論文を作成した。そして国民党中央党史委員会の援助のもとで、修士論文に若干の訂正を加えて同書を出版した。(中略)‥。台湾における民主化の深度を示す出来事といえよう。‥(中略)‥。

 (王凌霄は)「南京事件」に関しては次のように述べる。「日本軍の南京大虐殺の悪行が世界を震撼させた時、国際宣伝処はただちに当時南京にいた英国のマンチェスター・ガーディアンの記者のティンパーリー〔田伯烈〕とアメリカの教授のスマイス〔史邁士〕に宣伝刊行物の《日軍暴行紀実》と《南京戦禍写真》を書いて貰い、この両書は一躍有名になったという。このように中国人自身は顔を出さずに手当てを支払う等の方法で、『我が抗戦の真相と政策を理解する国際友人に我々の代言人となってもらう』という曲線的宣伝手法は、国際宣伝処が戦時最も常用した技巧の一つであり効果が著しかった」。

 文中の『  』内は、王凌霄が曾虚白の『自伝』の文章を引用する部分である。‥(中略)‥、王凌霄が文中の田伯烈と史邁士に英文名未詳という注を付しているのは「南京事件」に不案内であることを示す。『日軍暴行紀実』とはいうまでもなくティンパーリーのWHAT WAR MEANSである。史邁士の『南京戦禍写真』とはすでに述べた『スマイス報告』であり、南京市内の人的被害を過少に(殺害二四〇〇人)推算しているとして、この点を「虐殺派」からは疑問視されている。」

(北村稔,「南京事件」の探究,37-40,文春新書2072001

 

[補足1] スマイス報告の人口調査に関する部分については既に紹介した.スマイスは,家屋番号に従い五十戸から一戸を選び,居住する家族の人数・人的被害などを調べ,その結果を五十倍して,兵士の暴行による死亡二四〇〇人,南京市の人口二二万一一五〇人などの基本数字を導き出した.

 スマイスは南京近郊六県をも対象として抽出調査を行ない,民間人の被殺害者が三万人近くに達すると推算した.しかし,この調査の集計にはトリックがあり,信憑性に欠ける.

(北村稔,「南京事件」の探究,165-178,文春新書2072001

 

[補足2] 「近年,日本軍南京占領当時に書かれたあらゆる記録が、データベース化されたことにより、南京で起きたという殺人はほとんどが伝聞で、目撃されたのは昭和十三年一月九日の「合法的処刑」の一件だけであったことが明らかになった。」

(東中野修道,小林進,福永慎次郎,南京事件「証拠写真」を検証する,12,草思社,2005

 

 

○ セオドア・ホワイトの回想

 「では、英語圏に向けて中国国民党は嘘を宣伝してもよかったのか。その答えとしては、後年の有名なジャーナリスト、白修徳ことセオドア・ホワイトの体験が参考になる。国民党中央宣伝部に「顧問」として雇われ、一九三九年(昭和十四年)四月に首都重慶に着任してからの体験を、彼は『歴史の探究』のなかで次のように回想している。

 「実際にはアメリカの世論を操るために私は雇われていたのである。日本軍に反対するアメリカの支援こそが、この政府が生き残るための唯一の望みであった。アメリカの印刷物・出版物を支配することが死活問題であった。アメリカの新聞雑誌に嘘をつくこと、騙すこと、中国とアメリカの未来はともに日本に対抗していくことにあるとアメリカを説得するためなら、どんなことをしてもよい、それは必要不可欠と考えられていた」」

(東中野修道(編著),1937南京攻略戦の真実,24,小学館文庫R--6-12003

 

 

○ 南京で虐殺があったと認識していなかった国民党宣伝部

 「この機密文書(平成十五年に台湾の国民党党史館で発見された「中央宣伝部国際宣伝処工作概要」)のなかの「対敵課工作概況」には、宣伝工作の対象として南京の「強姦、放火、掠奪、要するに極悪非道の行為」が記されるのみで、南京の「虐殺」の文字はない。「対敵課工作概況」たけでなく編集課その他の「工作概況」においても、国民党宣伝部の宣伝工作の対象として南京の「虐殺」はあげられていなかった。第二次国共合作下の国民党も共産党も、南京で大虐殺が起きたという歴史認識は持ち合わせていなかったと言ってよい。」

(東中野修道,小林進,福永慎次郎,南京事件「証拠写真」を検証する,12,草思社,2005

 

 

○ 国民党宣伝部(およびティンパーリ)の手口

 「ベイツ師は「四万」という「遺棄死体」などの埋葬数をすべて不法に殺された人びとの死体とみなして「非武装の四万人近い人間が殺された」という短い一文をティンパーリ編『戦争とは何か』に書いた。しかし、先に極機密文書(上出の「中央宣伝部国際宣伝処工作概要」)に見たように、情報戦を展開していた国民党宣伝部は、南京「虐殺」を事実として認知していなかった。

 「首都陥落後の敵の暴行を暴く」(極機密文書)ことを目的としていた国民党宣伝部が、ベイツ師の主張を真実と認めていたのであれば、躊躇(ちゅうちょ)なくただちに英語版の『戦争とは何か』に書かれた「四万人虐殺」の一文を、漢訳版の『外人目撃中の日軍暴行』に特筆大書して、「四万人虐殺」を宣伝して当然だった。だが、それができず、ジレンマにおちいった。もしも国民党宣伝部が漢訳版にベイツ師の「南京四万人虐殺」を公表していたならば、事情通には嘘とわかることは必至だったからである。

 そこで国民党宣伝部は、ベイツ師の「南京四万人虐殺」の一文を、事情に疎い(うとい)欧米向けの宣伝本のなかでのみ宣伝し、『外人目撃中の日軍暴行』はもとより、その後四度にわたって中国大陸で刊行された他の英語版の出版物からも削除し続けた

 このように、南京大虐殺は、国民党宣伝部と南京の一部の欧米人との合作による戦争プロパガンダとして生まれたものであり、歴史的事実としては認知された事件ではなかったのである。」

(東中野修道,小林進,福永慎次郎,南京事件「証拠写真」を検証する,14-15,草思社,2005

 

○ ベイツの言う四万人の死因

 「ベイツの言う「四万」という数字は埋葬体(四万は水増しされた数字で実際は一万体)の数に基づいていた。その埋葬体のなかには戦死体や、逃亡するときに圧死した死体、陥落前に掠奪の罪で処刑された死体、放置された負傷兵の死体、中国軍督戦隊による射殺、日本軍による処刑などがあった。

 これらの死体のなかに不法殺害の疑いがあるとすれば、日本軍のおこなった処刑であろう。しかし、繰り返すようだが、誰も「処刑」を不法とは判断していなかった。」

(東中野修道(編著),1937南京攻略戦の真実,23,小学館文庫R--6-12003

 

 

○ 日本人には寝耳に水の話

 「南京を歩きまわってあちこち見ていた日本人の証言から、どんなことが浮かびあがってくるであろう。

 南京でいわゆる「三十万人の大虐殺」を見たという人は、四十八人の中にひとりもいない。それがひとつ。それから九年たち、南京での暴虐が東京裁判で言われたとき、ほとんどの人にとっては、それがまったくの寝耳に水だった。

 つぎに、四十八人の証言から、市民や婦女子に対する虐殺などなかったことがわかる。とくに婦女子に対する暴虐は、誰も見ていないし、聞いてもいない。

 南京にはいたるところに死体があり、道路が血でおおわれていた、としばしば語られるけれど、そのような南京は、四十八人の証言のなかにまったくない。東京裁判で語られたような悲惨なことは架空の出来事のようだ。」

(阿羅健一,「南京事件」日本人48人の証言,314,小学館文庫R--9-12002

 

 

○ 強姦は見たが、虐殺は見も聞きもしなかった――大西大尉の証言2

 ―上海派遣軍の中で虐殺があったという話はおきませんでしたか。

 「話題になったことはない。第二課も南京に入ってからは、軍紀・風紀の取締りで城内を廻っていました。私も車で廻った」

 ―何も見てませんか。

 「一度強姦を見た

 ―白昼ですか。

 「そうです。すぐ捕えた。十六師団の兵隊だったので十六師団に渡した。強姦は私が見た以外にも何件かあった。最初は慰安所を作るのに反対だったが、こういうことがあるので作ることになった。そういうことは第三課がやった」

 ―その他、暴行、略奪など見てませんか。

 「見たことがない。私は特務機関長として、その後一年間南京にいた。この間、南京はもちろん、蕪湖、太平、江寧、句容、鎮江、金壇、丹陽、揚州、?県を二回ずつ廻ったが、虐殺を見たことも聞いたこともない

阿羅健一,「南京事件」日本人48人の証言,186,小学館文庫R--9-12002

 

 

○ 南京事件の実態は中国兵の処刑

 「一般市民に対してはそうであるけれど、しかし軍隊に対してはやや違うようだ。

 中国兵を処断している場面を何人かが見ている。中国兵を揚子江まで連れていって刺殺しているし、城内でも刺殺している。南京に向かう途中でも、そのような場面を見ている人がいる。揚子江にはのちのちまで処断された死体がたくさんあった。これらから推察すると、南京事件と言われているものは、中国兵に対する処断だったのであろう

 といって、だからそれが虐殺として責められるべきことかといえば、必ずしもそうではない。大騒ぎすることではない。それが戦争だ、戦場だ、と大多数の証言者は見なしている。

 大多数ということは、そうでない人もいた。なかには、処断の場面を見て残酷だと感じ、行き過ぎだと見なす人がいた。しかし、そういう人でも、とくに話題にすることはなかったから、特別なこととは見なしていなかった。」

(阿羅健一,「南京事件」日本人48人の証言,314-315,小学館文庫R--9-12002

 

 

○ 日本軍の基本方針

 「四十八人の証言者のなかには軍人がいた。彼らの証言をみると、中国兵をとくに虐待しようとしていた人はいなかった。中島今朝吾師団長、長勇参謀長のように、中国兵にきびしく当たるような言動の人もいたけれど、軍からそのような命令が出たわけではない。反対に、最高司令官である松井石根大将は中国兵には人道的に対応するように命じている。」

(阿羅健一,「南京事件」日本人48人の証言,315,小学館文庫R--9-12002

 

 

○ 戦史に前例のない事態‥‥中国も欧米も沈黙

 「現在から見て少し不思議なのは、第三者であった欧米人観察者たちが軍服を脱ぎ捨てた中国人兵の集団処刑に対し、積極的な「判断」を控えていたことである。これについては、東中野氏が様々な事例をあげておられるが、筆者の見たかぎりでも、欧米人観察者たちは中国兵の集団処刑を大量殺人(mass murder)とは呼んだが虐殺(massacre)という表現は避けていた。‥(中略)‥。

 欧米人観察者たちは「ハーグ陸戦法規」を認識しており、日本軍に対し人道的見地からの寛大な処置を期待するとは述べたが、国際法上の「判断」にもとづく積極的な助命の主張は見られない。兵士が集団で武器を棄てて軍服を脱ぎ捨て、民間に紛れ混むなどという事態は戦史に例がなく、積極的な「判断」を示しようが無かったのであろう。‥(中略)‥。

 さらに「被害者」であった中国側も、摘発された兵士の処刑に対し国際法違反であるという「表立った抗議」はしていない。‥(中略)‥。

 南京守備軍の壊滅は、蒋介石の命令をうけた司令官唐生智の脱出が引き金であり、唐生智も配下の各軍に南京脱出の命令を発していた。それゆえ必ずしも命令違反の退却ではない。しかしながら、武器を放棄し更に軍服を脱ぎ捨て民間に紛れ込むなどは戦闘員としてあってはならぬ行為であり、恥辱の極みであった。‥(中略)‥、声高に論じるのをはばかる事態であった。」

(北村稔,「南京事件」の探究,101-105,文春新書2072001

 

 

○ 軍服を脱ぎ潜伏した中国兵の処刑は戦時国際法違反か

 「中国兵を処断した日本兵は、そのことを隠すこともしないし、なかには、ジャーナリストらにわざわざ処断の場面を見せようとするものもいた。中国兵の処断は戦闘の続きだ、と日本兵はみなしていたからである。のちに虐殺だと言われるとは思いもしなかっただろう。

 それでは、中国兵の処断は戦時国際法からどのようにみなされるのだろうか。現在の研究からみると、意見は分かれる。ひとつは、司令官が逃亡し、中国兵が軍服を脱いで武器を隠し持ち市民に紛れこんだ段階で捕虜として遇されることはなくなった、日本が非難されるいわれはない、とみなす意見である。その反対に、最後まで中国兵を人道的に遇すべきだし、処断は戦時国際法違反だ、という見方がある。また、処断するにしても、軍律会議などを経るべきだった。そうすれば非難されることはなかっただろうという見方もある。

 ともあれ、南京事件と言われるものの実態は、中国兵の処断である。戦場であったから、悲惨な場面はいくらもあった。逃げようとする中国兵のなかには城壁から落ちて死んだものもいた。しかし、それは戦場ならどこにでもある光景である。」

(阿羅健一,「南京事件」日本人48人の証言,315-316,小学館文庫R--9-12002

 

 

○ 日本における「南京事件論争」のハイライト

 「一九三七年の十二月夜半、司令官の唐生智は蒋介石の命令を奉じて南京を脱出した。これにより南京守備軍は壊滅し、逃げ遅れた多くの中国兵が武器と軍服を遺棄して安全区に逃げ込み潜伏した。翌十三日に南京を占領した日本軍は直ちに安全区を捜索し、民間人になりすましていた兵士達を逮捕し集団で処刑した

 この集団処刑は「計画的」であり、当時からよく知られていた。それゆえ論争の焦点は事実か否かには無く、集団処刑が戦闘にともなう止むを得ざる行為なのかあるいは不当な虐殺なのかにある。この出来事は、武器を所持し軍服を着て南京郊外の戦闘現場で投降した戦争捕虜の処刑とともに、日本における「南京事件」論争のハイライトである。「まぼろし派」と「虐殺派」との間には、すでに十年以上の論戦が展開されている。」

(北村稔,「南京事件」の探究,96,文春新書2072001

 

 

○ 戦争捕虜の処刑の問題

 「軍服を着たまま戦闘現場で降伏した戦争捕虜のかなりの部分を、一旦は収容しながらも数日後に処刑したことは、‥(中略)‥問題を複雑にしている。南京市西北郊外の幕府山一帯で降伏した、二万人に近い戦争捕虜の処刑が問題の焦点である。

 戦争捕虜は「ハーグ陸戦法規」により保護を規定されており、その大量処刑は計画的大虐殺であると告発されても弁解の余地のない出来事である。‥(中略)‥。

 軍服を脱いで潜伏していた兵士の処刑とは異なり、戦争捕虜の処刑に対しては「まぼろし派」による正面切った反論は見られないしかしながら戦争捕虜の大量処刑は、当初からの計画に基づいて行われたとも言いがたいようである。‥(中略)‥。

 (日本人が経営する中国人読者のための中国語日刊紙)『新申報』の三七年十二月二十五日の紙面には、幕府山に収容されていた二万人近い中国人捕虜の扱いに関する興味ぶかい記事が載っている。‥(中略)‥。食料が不足し、捕虜の収容継続が困難なことを暗示する内容である。このあと『新申報』には、幕府山の捕虜に関する報道は出現しない。そして今日では、これらの捕虜が処刑されたことが多くの資料から明らかにされている

 いうまでもなく、食料調達の極端な困難を理由に二万人近い捕虜を処刑してしまうのは、‥(中略)‥、説明責任の放棄である。虐殺派の研究によれば、「皆殺せ」の命令が捕虜収容中の部隊にだされたという。」

(北村稔,「南京事件」の探究,109-113,文春新書2072001

 

 

○ 説明しておくべきだった自らの軍事行動の妥当性

 「よく言われるとおり、「戦争は政治の延長」である。それゆえ軍事行動は、「政治目的」の達成に向けて展開される「政治性」を帯びた行為である。そしてこの「政治性」を維持し「政治目的」を達成するために不可欠な要素は、自らの軍事行動の妥当性を明瞭に「説明」しておくことである。‥(中略)‥。

 補給が不十分なままに上海からの快進撃を続け余裕のない状態で南京を占領した当時の日本軍にとり、遺棄された武器や衣服から想像される膨大な数の潜在的戦闘員の存在は不気味であったであろう。そして彼らを摘発しても食料の確保をはじめ収容する余裕がなく、抹殺してしまわなければ占領政策の続行が甚だ不安であると判断したのであれば、現場の司令部は自らの行為の妥当性を主張しておくべきなのである。便衣兵として処分したいのなら、「ハーグ陸戦法規」を意識して少なくとも何がしかの裁判の手続きを踏んでおくべきなのである。たとえ後になり、形式的裁判であったと非難されようがである。‥(中略)‥。

 外に対して慎重な配慮もせず、手続きなしに多数の中国兵を処刑した行為は、「残虐性」の発露というよりも、自分の行為のもたらす意味を考えない政治的に未熟な態度からもたらされた行為であると考えたほうが理解しやすい。これを裏返して言えば、もし行為の結果に思いを致すことができていたならば、大量殺害をみあわせたかもしれないということである。それゆえ、大量の中国人兵士を処刑した日本軍の行為を戦時国際法の理念から弁護しようとする「まぼろし派」の努力に、大きな成算を見いだすのは困難である。」

(北村稔,「南京事件」の探究,106-109,文春新書2072001

 

 

○ 捕虜の護送時の大混乱から悲惨な結果に想像を超える事態

(鈴木明,「南京大虐殺」のまぼろし,220-223,ワック,2006

 

(千五百人の軍隊が一万人の捕虜を抱えた)

 「平林氏は淡々たる表情で語りはじめた。「(中略)‥。問題は給食でした。われわれが食べるだけで精一杯なのに、一万人分ものメシなんか、充分に作れるはずがありません。それに、向うの指揮官というのがいないから、水を分けるにしても向うで奪い合いのケンカなんです。庭の草まで食べたという者もいます。‥(中略)‥」

 僕はいま、どう想像しても、その極限状態を実感として捉えることはできない。たしかに、千五百人の疲れ果てた軍隊が、一万あまりの捕虜を抱えた時のあらゆる事態を想定した時、その困惑ぶりはおそらく想像を絶するものがあったろう。」220ページ

 

(捕虜を釈放と聞いて安堵)

 「日本の兵隊は捕虜のために昼夜兼行で食事を作ったが、作ることより、むしろ配ることの方が難事業だったに違いない。だから、「捕虜を江岸まで護送せよ」という命令が来た時はむしろホッとした。平林氏は、「捕虜は揚子江を舟で鎮江の師団に送り返す」ときいていたという。」220-221ページ

 

(十倍以上の人数の捕虜を護送することの恐怖)

 「(平林氏は言う。)「捕虜の間に、おびえた表情はあまりなかったと思います。兵隊と捕虜が手まねで話をしていた記憶があります。出発は昼間だったが、わずか数キロ(二キロぐらい?)のところを、何時間もかかりました。とにかく、江岸に集結したのは夜でした。その時、私はふと怖しくなってきたのを今でも憶えています。向うは素手といえども十倍以上の人数です。そのまま向って来られたら、こちらが全滅です。とにかく、舟がなかなか来ない。考えてみれば、わずかな舟でこれだけの人数を運ぶというのは、はじめから不可能だったかもしれません。」」221ページ

 

(突然大混乱に)

 「「捕虜の方でも不安な感じがしたのでしょう。突然、どこからか、ワッとトキの声が上った。日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる。それを合図のようにして、あとはもう大混乱です。一挙に、われわれに向かってワッと押しよせて来た感じでした。殺された者、逃げた者、水にとび込んだ者、舟でこぎ出す者もあったでしょう。なにしろ、真暗闇です。機銃は気狂いのようにウナリ続けました。」」221ページ

 

(悲惨な結果)

 「「次の日、全員で、死体の始末をしました。ずい分戦場を長く往来しましたが、生涯で、あんなにむごたらしく、悲痛な思いをしたことはありません。我が軍の戦死者が少なかったのは、彼らの目的が、日本軍を“殺す”ことではなく、“逃げる”ことだったからでしょうね。向うの死体の数ですか?さあ‥‥千なんてものじゃなかったでしょうね。三千ぐらいあったんじゃないでしょうか‥‥」

 平林氏は、「鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)」という古めかしい形容詞を二度も使った。他にいいようがなかったのかもしれない。221-222ページ

 

(自衛だった)

 「鈴木氏も現場にいたというので訪ねてみた。鈴木氏は、「自衛であった」ことを強調して話に入った。‥(中略)‥。「あの時撃たなければ、われわれは全滅になった。だから、自衛といえるんじゃないでしょうか」

 鈴木氏は、この件を語ったのは初めてだし、もう再びしゃべりたくはない、とつけ加えた。」222-223ページ

 

 

○ 毎日新聞と朝日ジャーナルの歪曲

 「ところが、昭和五十九年八月七日「毎日新聞」は「元陸軍伍長、スケッチで証言、南京捕虜一万余人虐殺」という大見出しで、第六十五連隊の伍長であったK氏が多数の捕虜を揚子江岸に連行して一万三五〇〇人をみな殺しにしたという証言を発表した。それは従来の説をくつがえす計画的・組織的な虐殺説であった。

 続いて本多勝一氏がK氏を訪問してその記事を『朝日ジャーナル』21(昭59?9?7)と22(昭59?9?14)に連載し、さらにくわしく一万三五〇〇人の虐殺の模様と、これは軍司令部からの命令だと報道した。

 K氏というのは、栗原利一氏のことであるが、栗原氏は自分の意思とは全く逆の報道をされたことに対して「毎日」に抗議を申しいれた。すなわち栗原氏は、中国側の公式資料集『証言・南京大虐殺』の三〇万、四〇万の虐殺という虚数に腹をたて、これに反論するため記者に話したのだが、都合のよい部分だけをつまみ食いされ、あのような記事になり、匿名の中傷や悪罵をあびて困っていると抗議したのである。

 「毎日」は、九月二十七日『記者の目』と題し、「匿名の中傷、卑劣だ」という記事の中で、栗原氏の「大虐殺否定」の真意を小さく報じたが、しかしその大げさな記事の力点は、K氏に対する非難は怪(け)しからんというのであって、記者の誤った報道に対する反省も謝罪のカケラもみられなかった。」

(田中正明,「南京事件」の総括,58-59,小学館文庫R--14-22007

 

 

○ 捕虜大量射殺事件に関する“if”

 「大事件というのは、必ずいくつかの「偶然」が、がんじがらめの糸のように織り重なって構成されている。この「捕虜大量射殺事件」も、いくつかの「if」がある。

 もし、総攻撃がもう一日遅れていたらもし唐生智がもう一日城内に残っていたら、もし、南京が城壁にかこまれていなかったら、もし、揚子江が背後になかったら、もし、揚子江に舟があったら、もし、食料が潤沢だったら、もし、せめて水でも潤沢だったら、もし、長大佐でない人が参謀だったら、もし、部隊と捕虜の数があれほど違わなかったら、もし‥‥。これらの「もし」が一つでもあったら、この事件は起こらなかったろう

 事実、上海戦では、一説には三十万人の、少なくとも南京戦をはるかに上廻る中国軍が一斉に潰走したはずなのに、まとまった捕虜獲得のケースは一件もない。その後の徐州戦でも、漢口戦でも、少なくともこの山田旅団の経験しているような大量捕虜のケースは、日本、中国双方から、一件も報告されていないのである。

 この凄惨で救いのない「事件」の中で、僕にあえてこれを書く勇気を与えてくれたのは、事件の当事者たちが「血に飢えた軍国主義の殺人狂」でもなく「残忍な薄笑いを浮かべて」中国兵を殺したのでもなく、一九七二年に生きるわれわれと同じように悩み、苦しみながら事を行ったと推定できることである。」

(鈴木明,「南京大虐殺」のまぼろし,224-225,ワック,2006

 

 

○ 長勇大佐の捕虜殺害命令はあったのか?――大西大尉の証言3

 「上海派遣軍司令部には参謀が十五人おり、三課に分かれていた。一課は作戦、二課は情報、三課は後方担当である。二課の課長は長勇(ちょういさむ)中佐で、長中佐の下に本郷忠夫少佐、御厨正幸少佐、大西一大尉がいた。第二課の仕事は中国軍の情報収集で(水上註:捕虜の担当は三課である)、どの師(師団)がどこに配置されているかについて調べることも必要であった。中国軍は軍閥の領袖による軍の集合体だけに、師ごとの強弱がはっきりしていた。中国軍の配置の状況を知ることはきわめて重要だったのである。‥(中略)‥。大西氏には、いろいろ噂のある長勇第二課長のことからうかがった。

 ―昭和六十年三月号の『偕行』(陸軍の将校の集りである偕行社から発行されている月刊誌)に、松井(石根)大将の専属副官であった角良晴少佐の証言があり、それによりますと、長参謀が虐殺を命令したとありますが‥‥。

 「私は長参謀の下にいましたが、長参謀が命令を出したということは、見たことも聞いたこともありません。角証言については、長参謀が命令したという第六師団は第十軍隷下で、上海派遣軍ではありません。上海派遣軍が第十軍の師団に命令することはありえないことです。また、情報担当の長参謀が命令するというのもおかしい話です」。‥(中略)‥。

 ―人間としてどんな人ですか。

 「長参謀とは参謀本部支那課と上海派遣軍の二度一緒に仕事をやりました。激しい人でしたが、支那に対しては理解ある人でした。無理を言う人ではありません。二課にいる人は中国をよく知っている人ばかりで支那に同情していました」。‥(中略)‥。

 ―第十六師団の中島(今朝吾中将)師団長の日記に「捕虜はせぬ方針なれば」とあり、これが捕虜虐殺の証拠だとも言われていますが‥‥

 「これは銃器を取り上げ、釈放せい、ということです。中国兵は全国各地から集っていますが、自分の国ですから歩いて帰れます」

 ―軍の命令ということはありませんか。

 「このような命令を出していません」」

阿羅健一,「南京事件」日本人48人の証言,178-182,小学館文庫R--9-12002

 

 

○ 三十万人虐殺説を正当化しようとする虐殺派の執念

 「南京大学教授で宣教師という信頼される立場の人の発言が、まさか戦争プロパガンダであったとは思いたくないであろうし、一度信じて刻印された考えはなかなか消しがたい。そこでベイツの「南京四万人虐殺」を正当化するため、また東京裁判で中国が主張した三十万人虐殺説を正当化するため、さまざまな論点が持ち出されている。それはいちいち挙げればきりがないほどである。ここでは本書で見極めてもらいたい三点を挙げておく。

 @誰もが南京「虐殺」と言えば南京で捕虜や市民が殺されたと思う。ところが、城内の安全地帯や城壁近くで三十万人虐殺はおろか、不法殺人の目撃は一件も記録されていない(註)ことが判明するにつれ、日本軍は南京陥落後のみならず、上海から南京までの進軍中にも虐殺したという議論が出てきた。言うなれば、数字合わせのための地域拡大論である。‥(中略)‥。

 A虐殺にあたいするものは殆(ほとん)どなかったから、そこで南京「虐殺」の一つである「強姦」に焦点をあてて、それを追及しようとする議論も出てきた。‥(中略)‥。

 B今日の事件でもわかるように、事件には動機がある。しかし、南京「虐殺」には最初から動機がなかった。そのため南京「虐殺」の原因がむりやり戦場における人間性の変化に求められた。‥(中略)‥。つまり「戦争が人間性をも変える」というのである

 戦争で武器が多くの人の命を奪って、戦争は終わった。しかし、戦争は終っても、戦争中のプロパガンダが今なお日本人の心を呪縛している。「宣伝(プロパガンダ)」の正体を心して見続けない限り、私たちは永遠に「宣伝」に毒されていくだけである。

(註)南京城内で不法殺人の目撃が一件もなかったことについては、いつ、どこで、何があったかをあらゆる角度から浮き彫りにした唯一の書、冨沢繁信『南京事件の核心』(展転社)がすべてを言い尽くしている。」

(東中野修道(編著),1937南京攻略戦の真実,26-28,小学館文庫R--6-12003

 

 

○ 朝日流論点すり替えの術

 平成191215日の朝日新聞に「南京事件70 数字の争いを超えたい」と題する社説が載った.そこでは,新装開館された「南京大屠殺記念館」でも依然として犠牲者数を30万人としていることを紹介し,その理由として,南京裁判で確定した数字であることを挙げた後,次のように書いている.

 「日本の専門家の間では、数万人説や「十万人から二十万人」説などがある。私たちも30万人はいくらなんでも多すぎると思う。だが、一部では虐殺自体を否定する暴論まで語られている。新記念館に掲げられた数字は、そうした日本の論議への怒りを表してもいるようだ。」

 呆れた主張である.これでは話があべこべである.そのうえ,中国の意向を先取りするような宣伝をする.裏を返せば,中国が怒っているから,日本における南京大虐殺の真偽の追究を止めよというご託宣のようなものでもある.これで日本の新聞といえるのか.しかも,これだけでは終わらないのである.すなわち,社説の最後で次のように述べ,福田首相の南京訪問を婉曲に勧めている.

 「福田首相は70年の節目に、追悼と和解への思いを語ることはできるはずだ。そうした積み重ねが、やがて数字の壁を越え、和解への扉を開くに違いない。」

 中国は政治的効果がある限り「南京大屠殺」を宣伝し続ける.日本国内に中国と呼応する強い勢力がある現在,福田首相が南京を訪問したところで中国が「カード」を捨てるはずがない.中国にとって真実はどうでもよいことなのだ.読者を欺くのもほどほどにせよ.

 局外者を装っているが,すでに説明したように,朝日新聞は「南京大虐殺」を誇大に再宣伝した元凶である.その宣伝は父祖の名誉を毀損し,国民を欺いて誇りを失わせ,中国の付け込みを呼んで日本の外交を困難に陥れた.だからこそ数の争いが起きたのである.自ら大虐殺を唱えておきながら,旗色が悪くなると数の問題ではないと論点をすり替えるのには開いた口が塞がらない.とはいえ,こうした論点のすり替えは朝日新聞の悪癖である.

 朝日新聞が「罪の巨塊」の重さに耐えかねて国民の前にひれ伏せば,事態は変わるのだが‥‥.

 

[参考](慰安婦問題における朝日新聞の論点すり替え)

 1992111,宮沢喜一首相訪韓の5日前に,朝日新聞はあたかも日本軍が慰安婦強制連行に関与した証拠が見つかったかのように報道した.この報道は誤りで,その関与の証拠なるものは,朝鮮では拉致・誘拐などを行う悪徳業者がいるので警察と連携を密にして社会問題にならないようにせよという軍の注意文書だったことが,後に判明した.しかし,宮沢首相は検証する時間的余裕もなく訪韓し,真相を知らないまま安易に謝罪した.朝日新聞の報道は単なる事実誤認というより,意図的なものと疑われている

 朝日新聞が問題にしていたのは慰安婦強制連行であったはずだが,それを裏付ける証拠を探し出せなかった.しかし,朝日新聞は論争における自らの敗北を認めず,973月になって「奴隷狩りという狭義の強制性に限定せず,慰安所における慰安婦の自由と尊厳の侵害という広義の強制性も問題にすべきだ」と論点をすり替えた

 娼妓が不自由であるのは慰安所に限ったことではなく,一般の遊郭でも同様である.したがって,朝日新聞の主張はもはや慰安婦制に対する糾弾ではなく,売春の公認に対する非難に変わったのである.

 慰安婦問題に関する朝日新聞の論点のすり替えはさらに続く.「米下院での慰安婦問題決議騒動に際して、安倍首相が「広義の強制性はあったが狭義の強制性はなかった」と説明したのは河野談話の足かせがあるからで、苦渋の選択だったと言える。少なくとも国内外の批判に堪えうる極めて穏当な発言だったが、これに対して朝日新聞は0736日付朝刊の社説で、「細かな定義や区別にことさらこだわるのは、日本を代表する立場の首相として潔い態度とは言えない」と批判した。これまでの議論をまったく無視して、広義も狭義もないと言っているわけでまともな議論ができる相手でないことがよくわかる。」(SAPIO編集部,アメリカ人にもわかる「従軍慰安婦問題」の基礎知識,SAPIO200759日号,19

 

 

 

7.情報戦に負けた日本

 

 

○ 第一次情報戦

 「南京「虐殺」という言葉を一つの情報戦の武器と見ると、日本は三度この情報戦に見舞われたことになる。

 一度目は、昭和十二年(一九三七)十二月十三日の南京陥落からである。アメリカの新聞やティンパーリ編『戦争とは何か』などが、南京は「この世の地獄」で、日本軍が「掠奪・殺人・強姦を意のまま」にしていると描写して、日本軍を告発した。しかしそれを聞き知った日本軍将兵や外交官は、そんなことは「反日プロパガンダ」だと承知して深く気にもとめず、軽く反論して済ませていた。従って日本軍の軍事的優勢のもと、それはそのまま立ち消えていった。」

(東中野修道(編著),1937南京攻略戦の真実,9-10,小学館文庫R--6-12003

 

[参考](1938年1月の国際連盟理事会で早くも二万人虐殺を宣伝)

 「第一〇〇会期国際連盟理事会(一九三八年一月二十六日〜二月二日)で顧維均中国代表は、採択を前にして「南京で二万人の虐殺と数千の女性への暴行」があったと演説し、国際連盟の「行動を要求」したが、一九三七年十月六日の南京・広東にたいする「日本軍の空爆を非難する案」のように採択されなかった。この数は、東京裁判での二十万人や中国側が二〇〇六年までに主張していた公式見解三十万人と桁が違う。」(田中正明,「南京事件」の総括,93,小学館文庫R--14-22007

 

 

○ 第二次情報戦

 「情報戦の二度目は、日本の敗戦後、昭和二十一年(一九四六)から二十三年まで日本を裁いた東京裁判であった。それまで、どの国も、日本にたいして、一度も南京「虐殺」を公式批判したことがなかったにもかかわらず、戦勝国は日本に戦争贖罪(しょくざい)意識を植え付けるため、その格好の材料として南京「虐殺」を俎上(そじょう)にのせた。十分な検証も確証もない南京「虐殺」を突如として持ち出して、日本を断罪したのである。‥(中略)‥。

 しかし、たとえ東京裁判が南京「虐殺」を断罪したとしても、その当時戦争に行って日本軍の実態を知っていた兵隊はもとより戦争に行かなかった日本人も、日本兵がそんなことをするはずもないと、南京戦に参戦した日本兵の言葉を信じ、冤罪(えんざい)であることを疑わなかった。日本政府もまたそうであった。従って、日本の教科書が南京「虐殺」を載せることもなかった。つまり、第二の情報戦においても日本人がそれに屈することはなかった。」

(東中野修道(編著),1937南京攻略戦の真実,10-11,小学館文庫R--6-12003

 

 

○ 第三次情報戦

 「しかし時代が下がるとともに、南京で戦った兵隊たちも社会の第一線から退き、次々と亡くなっていった。そんななか、三度目の情報戦が襲来し、いま現在、私たちはその渦中にいる。

 それは、今から振り返ってみると、昭和五十七年(一九八二)の教科書誤報事件からである。時の宮沢喜一官房長官は近隣諸国にたいして「近隣諸国条項」を発表する。それからである、日本の教科書が「南京大虐殺」を書き始めるのは。それと相前後して中国の国定教科書もそれを載せ始める。それから二年後、昭和六十年に、日本の左翼政治家と新聞記者の強い要求のもとにと言われる南京大虐殺記念館が建てられる。その十年前、本多勝一氏が「私はこんな被害を受けた」という中国人の証言を集めていた。朝日新聞がそれを連載し、それらをまとめて単行本として出版していた。

 こうして南京大虐殺の本が大量に出回っていく。たとえば南京残留の欧米人が日本大使館に提出した『南京安全地帯の記録』の翻訳や、南京陥落七ヶ月後に出たティンパーリ編『戦争とは何か』の翻訳、当時の日本軍を批判したアメリカの新聞の翻訳、そしてこれらを基に東京裁判の判決を鵜呑み(うのみ)にした形の二十万人虐殺を主張する本が次々と出版された。

 全国に放送するテレビも、この風潮の形成に一役買った。たとえばNHKは平成八年(一九九六)の二月二十四日、「映像の世紀第十一集 JAPAN 世界が見た明治・大正・昭和」のなかで、戦時中のアメリカの戦争プロパガンダ用の映画を「海外のカメラマンが記録」した実写フィルムとして報道した。

 最近では、ちょうど一年前(平成十四年)の夏、テレビ朝日が「ニュースステーション」で、「南京大虐殺」を主張せんがために出版された『南京戦―閉ざされた記憶を尋ねて―元兵士一〇二人の証言』(社会評論社)を取り上げ、追撃中の戦闘行動を捕虜殺害の行動と混合(?混同)した証言ばかりであったにもかかわらず、この証言のみを根拠にして、「日本兵は殺しに次ぐ殺し、強姦に次ぐ強姦をした」と強調した。戦争の悲惨さの報道に名を借りて、テレビ朝日は南京「虐殺」の告発をおこなったのである。‥(中略)‥。

 戦争で人生最大の辛酸(しんさん)を嘗()めた兵隊たちに、私たちは感謝と慰労と慰霊の言葉を捧げるべきであるのに、それどころか今や非難しなくてはならないように仕向けられ、同じDNAを受け継ぐ私たち日本人を蔑(さげす)まなくてはならないようになっている。」

(東中野修道(編著),1937南京攻略戦の真実,11-12,小学館文庫R--6-12003

 

 

 

おわりに

 

 南京攻防戦の際に多くの人々が亡くなった.なかには巻き添えになった民間人もいる.悲劇があったことは確かである.だからといって,直ちに「大虐殺」が行われたということにはならない.戦闘における殺害は正当だからである.

南京には第三国人(白人)の国際委員会が管理する安全区が設けられており,住民はここに避難していた.日本軍の占領後は,安全区への兵士の立ち入りは厳しく制限されていた.日本兵による住民虐殺を目撃した第三国人はいない(東京裁判で偽証した者はいるが).

 南京攻略から1ヶ月も経たないうちに,日本軍は住民に「安居之証」(安全に居住するための証明書)を発行した.発行した証明書の数は約16万枚と推定されている.この数に子供や老人の数を加えると、住民は20万人を超える.日本軍の攻撃時の人口は20万人程度と推定されているから,住民大虐殺はありえない.

 「南京大虐殺」は,国民党が欧米人を使って展開した戦時宣伝工作のなかで作り上げられた虚像である.東京日日新聞(毎日新聞の前身)の「百人斬り競争」の記事はそのための格好の材料として利用され,粉飾され,「大虐殺」を象徴する証拠にされた.南京裁判で「百人斬り競争」の冤罪を被り,野田毅少尉と向井敏明少尉が処刑された.田中軍吉大尉は「三百人斬り」の罪により,谷寿夫中将は「大虐殺」実行の責任を負わされて処刑された.松井石根大将と広田弘毅外相は東京裁判で「大虐殺」を止めるために適切な措置を執らなかったことを理由に有罪とされ,絞首刑に処された.

 一九七〇年代に入って,本多勝一記者は被害者と称する中国人からの聴き取りをそのまま朝日新聞に連載し,それをまとめて「中国の旅」と題して朝日新聞社から出版し,日本軍の残虐行為を喧伝した.これを契機に「南京大虐殺論争」が燃え上がった.また,日本の教科書が「南京大虐殺」を載せ始め,南京には大虐殺記念館が,中国各地に抗日記念館が建設され,残虐非道な日本軍という宣伝がまたしても始まった.

 米国では,一九九〇年代にはアイリス・チャン著「The Rape of Nanking」が出版されて,ベストセラーとなり,世界中に南京大虐殺が広まった.さらに,今年は多くの映画が製作公開されるという.アイリス・チャンのウソを下敷きにするものもいくつかあるらしい.

米国人には原爆投下や日本各地への無差別爆撃による大殺戮,ドイツ人にはユダヤ人大殺戮に対する後ろめたさがあるので,日本がそれを上回る野蛮なことをしたと聞けば救われた気分になる.イギリスやオランダ,フランスには,日本のせいで植民地を失ったという恨みがある.そういう気分がこの本をベストセラーに押し上げたという見方がある.

[註] Iris Chang, “The Rape of Nanking”の出版後まもなく、それを日本語に翻訳しようとした出版社があった.しかし,事実の誤りの訂正を提案したところ,出版を拒否されたという.ところが、「南京事件」後70年の2007年末になって同時代社という出版社が訳書を出版した。訳者はどうやら中国人である。

(*) 実は,この説明は正確ではない.事情はもっと複雑だという.同書は間違いだらけであったが,出版社は中学生でも判るような歴史事実の誤りを10箇所程度訂正し,写真1葉を差し替えるつもりであった.そして著者はそれを了解していた.しかし,出版社は訳書とは別に,アイリス・チャンの誤りを指摘しつつ南京事件を英語圏に知らせた画期的な意義を評価した解説書(多くの執筆者による論文集)の同時出版を予定していた.アイリス・チャンは出版直前にそれを知り,訳書の出版を拒否したのである.(参照:藤岡信勝,東中野修道,「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究,第四章,祥伝社,1999

 

 平成十五年,二人の少尉の遺族は名誉を回復するべく,毎日・朝日新聞社と本多記者を相手に出版停止などを求めて提訴した.最高裁まで争ったが,「百人斬り」という実体は否定されたものの「それらしき競争」はあったと判断され,平成十八年暮に敗訴した.とはいえ,判決は「百人斬り」は「甚だ疑わしく」「信じられない」とした.また,この裁判を通じて朝日新聞と毎日新聞は真実を追求する姿勢を示さず,ジャーナリズムとして適格性を欠くことが露呈した.

 南京事件についての歴史研究上の争点は,不法戦闘員(便衣兵)あるいは捕虜の処刑が人道的でなかったのではないかということ,および殺害した捕虜の数がどれほどかということに収束しつつあるようである.

 そういう研究によって歴史的事実は明らかにされるかもしれないが,一方で警戒しなければならないことがある.すなわち,それは所詮,日本軍の悪さが絶対的にどれくらいかを示すに過ぎず,程度の差こそあれ虐殺を行った日本軍の責任は免れないという結論に至りがちなことである.

 歴史研究の使命は歴史的事実の究明であって,日本軍の責任の追及ではない.それでも敢えてそれをするのなら,相対的な視点と当時の価値観の確固とした認識が必要である.なぜなら,戦争は当たり前に行われていたのであり,戦争には相手があったのであり,さらに,当事者を取り巻く国際的環境があったからである.たとえば,国民党軍が戦時国際法を守り,唐生智南京防衛軍司令官が逃亡せず正式に降伏していれば,南京での悲劇は起きなかったであろう.捕虜の不当な扱いがあったことを認めるとしても,それは世界のなかで日本軍だけのことではなかった.「生きて虜囚の辱めを受けず」という一項が「戦陣訓」に盛り込まれた一因は中国での戦争経験と邦人虐殺であるとも聞く.また,始めに述べた国民党の対外宣伝工作という事実もある.

 日本は敗戦国であったために,南京と東京で行われた軍事裁判において不当な判決を受け入れざるをえなかった.しかも,最近になって再び,日本は三十万人も虐殺し,その他の極悪非道な犯罪をもしたい放題に行なった国家であるという宣伝・攻撃を受けている.いま我々がまず為すべきことは,その宣伝を粉砕することである.歴史的事実はその政治目的のためにこそ活用しなければならない.

 「南京大虐殺」なんてあったはずがないと主張してみても,いつまでも埒が明かないだろう.やり合うならテーマに「百人斬り競争」を選んでみてはどうだろう.将を射んと欲すれば先ず馬を射よ.裁判所が苦しい理由付けをしてさえ,「百人斬り競争」は限りなく白に近い灰色にすぎない.故意の屁理屈を排除して良識・常識で見れば真っ白である.虐殺の証拠として南京大虐殺記念館と抗日記念館に展示されている両少尉の写真と資料の撤去を求め,両少尉の名誉を回復しようではないか.新聞協会には朝日新聞社と毎日新聞社の倫理綱領違反を審査するよう要求しよう.

 

[参考] 「中国の抗日記念館から不当な写真の撤去を求める国会議員の会」が20076月に設立された.同年同月,「南京虐殺記念館の向井・野田両少尉の写真撤去を求める国会請願」が衆院外務委員会と参院外交防衛委員会に付託された(結果は未知).912日の同会第三回全体会議では,増築改装中で1213日に再開が予定されている南京大虐殺記念館の展示に関して,不当な写真の撤去の申し入れを行う基本方針を確認した(実施されたか,未確認).(2008.5.17記)

 

 

 

参考事項

 

 「南京における日本軍の極悪非道」には,虐殺の他に略奪,強姦,放火もある.放火については上で少し扱っており,日本軍の所業とみるには根拠が薄弱であることが述べられている.略奪,強姦については触れていないが,やはり日本兵の所業とするのは疑問である.なぜなら,陥落後の南京には便衣兵が潜んでいたのであり,しかも,虐殺,略奪,強姦,放火は中国の戦争文化だからである.中国人は日本人の美意識を知らないから,自分たちがすること,否,中華思想からすれば自分たち以上に野蛮なことを日本人は当然すると思い込んでいる.したがって,南京で行われたとして中国が告発する犯罪は,中国人にはできるが,日本人にはできないということが中国人には分からないのである.そして,中国が日本軍の残虐性を強調すればするほど,それは自らの残虐性を宣伝する結果になるのである.我々は,日本人と中国人との違いおよび日本兵と中国兵の質の違いをよく認識しておかなければならない.

 歴史を担った人々を知らなければ,歴史事実さえも確実に把握できないだろう

 

 

[1](日本兵と中国兵の違その1)

 「一つは徴兵の方法が基本的に違った。今日の諸外国でそうであるように、当時の日本国民には、防衛義務(兵役)と納税と義務教育は三大義務であったから、適齢の若者は軍隊に入って教育を受け、そして戦線に派遣され、戦地手当を含む給与を支給された。その軍律は厳しく、刑罰も厳しかった。

 しかし中国では軍隊が若者を強制連行し、否応(いやおう)なく兵隊に仕立て、実戦で実地に訓練した。強制連行だから、無論、ほぼ無給であった。砲艦比良の先任将校(副艦長)であった芳根広雄は、‥(中略)‥、次のように記している。

 「通訳に『拉夫急(ラフニイ)』の意味を聞いて見ると、『それは人さらいが激しいから、若者は気をつけろという意味ですヨ』という返事だった。沙市(さし)では前線で軍隊の仕事に従事する人夫が不足してきたので、それを補充するため、武装兵が町に出て手当たり次第に若者を捕えて、戦場に連行するのだということが頻発しているようだ。」

 これが一九三〇年(昭和五年)頃の、漢口上流の町、沙市での話である。誰でも戦えるものは駆り集めて戦場で戦闘を学ばせるということが中国各地で生じていたと、『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン記者も回想している。」

(東中野修道(編著),1937南京攻略戦の真実,186-187,小学館文庫R--6-12003

 

 

[2](日本兵と中国兵の違その2)

 「二つ目に、いろいろな地方から強制的に駆り集められてきた中国軍と違って、日本軍の師団は、たとえば第六師団は熊本、鹿児島、宮崎、大分の連隊から構成されていたように、同じ郷里の出身者で構成されていた。‥(中略)‥。悪行を働けば、第七章の「陸軍刑法で処罰するぞ」にも「歓呼の声に送られて、勇んで故郷を出てきた」とあるように、郷里に帰って郷里の人たちに顔向けできないという意識が働いていた。しかも日本軍は兵隊を「天皇陛下からお預かりした」のだから、それだけに決して恥じない軍隊であることを目指していた。」

(東中野修道(編著),1937南京攻略戦の真実,187,小学館文庫R--6-12003

 

 

[3](中国は兵匪の国)

 「フィル・ビリングズリーの『匪賊(ひぞく)』(筑摩書房、山田潤訳)は驚くべきことを書いている。中国は飢饉(ききん)と戦乱に常に襲われたが、一九一〇年代、二〇年代の中国もそうであった。飢饉が農村を荒廃させ、それが農民を匪賊に走らせ、匪賊が官軍に採用され、戦争がまた匪賊を必要とした。この悪循環から「兵士でない賊徒はなく、賊徒でない兵士はない」という混沌(こんとん)とした「兵匪の国」が一九二〇年代初めに出現した。一九三〇年代になると匪賊総数が「二〇〇〇万人」となった

 中国全土で「匪賊の現れない地方はなく、匪賊の現れない年もない」と言われ、今や匪賊は「平穏であった中心部」にも進出した。‥(中略)‥。

 匪賊が捕まると首を切られて「生首」か晒(さら)し首にされるのが「通常の懲罰」であったから、匪賊も城壁を包囲すると、報復手段に出て、長官とその部下を「皆殺し」にしたうえ、「生首」を城壁に並べ立てた。一マイル四方の人家と糧食を「焼きつくし」て、「人々を皆殺し」にしながら、完全に破壊した匪賊もいた。問題は、このような状況が程度の差こそあれ中華民国時代の中国全土に当て嵌まったことだという。」

(東中野修道(編著),1937南京攻略戦の真実,231-232,小学館文庫R--6-12003

 

 

[4](敗残兵の残忍さ)

 「さらに湯山の南の句容の状況を、大坪鉄三郎准尉と長倉久徳一等兵が語る。

 「この近くの部落へ十五名ばかりの強盗がやって来て、主人(農夫)を竈(かまど)の上につりあげ火焙(ひあぶ)りにしたが、それが丁度憲兵隊に使ってゐるコックの実家なので直ぐ報告があり、今朝二手に分かれて討伐をやったのです。‥‥奴等の残忍性にはあきれます。農民を火あぶりにした上、金を奪い取り、憲兵隊へ密告せば命がないゾと脅して行くので、農民はブルブルふるえて仕事も手につかないのです、そのためわれわれが行くと喜び親しんで、イスをすすめ、お茶を出して歓待してくれます」

 このように、敗残兵は毎晩城門の近くにやってきては発砲しているという、佐野博伍長の話も紹介されている。南京が陥落しても敗残兵の出没は続いた。

 中国軍の掠奪を考えなければならないのである。

 また中島今朝吾(けさご)第十六師団長の陣中日記が記すように、南京陥落前に中国軍が掠奪に走って「家屋モ徹底的ニ引キマワシテアル」ため日本軍のはいったときは「何モノモナク」という状態であった。従って、一般的に言って、南京占領後、笠原十九司『南京事件』の言うような、「数万の軍隊による食料物資の略奪が城内でおこなわれる」ということはなかった。」

(東中野修道(編著),1937南京攻略戦の真実,229-230,小学館文庫R--6-12003

 

 

[5](支那は国家ではない ― 勝海舟の認識)

 「支那を日本と同じやうに見るのが大違ひだ。日本は立派な国家だけれども、支那は国家ではない。あれはただ人民の社会だ。政府などはどうなっても構はない。自分さえ利益を得れば、それで支那人は満足するのだ。清朝の祖宗は井戸掘をして居たのだが、そんな賤しいものの子孫を上に戴いて平気で居るのを見ても、支那人が治者の何者たるに頓着せぬことが分る。それだから独逸人が愛親覚羅氏(*)に代って政権を握ろうが、露西亜人が来て政治を施さうが、支那の社会には少しも影響を及ぼさない。」

(勝海舟(江藤淳・松浦玲編),氷川清話,284,講談社学術文庫14632000).

*)愛親覚羅は清朝皇帝の姓.ただし,正しくは愛新覚羅ではないか?

 

[蛇足]つまり,安心な生活を維持してくれるなら日本軍も歓迎するのである.

 

 

[6](数多くある南京大虐殺

 「‥‥中国には城下町というものがなかった。中国でいう城とは1つの市であり、城市とも呼ばれ、支配者から庶民に至るまで巨大な城壁に囲まれて共に生活していた。これは人間不信の民族性から、外敵の攻撃防御のため家屋に防塁を築きたいとの欲求からの発想である。

 だがいざ敵の城攻めにあうと、城内に閉じ込められた住民も戦いに巻き込まれることは必定(ひつじょう)で、負け戦となれば敵の略奪、虐殺の対象となった。「屠殺」(城民大虐殺)も珍しいことではなく、歴代王朝時代には南京城でも、「南京大虐殺」が夥(おびただ)しく発生していた。

 城民に略奪を働いたのは敵の兵士だけではない。味方の兵士も逃走前には略奪、暴行を行うのが常態だった。例えば中国人による数ある南京大虐殺のうち、最大級とされているのが南北朝時代(梁武帝のとき)の候景による大虐殺だが、そのあとに王僧弁が率いる官軍による狼藉の熾烈さは、賊軍候景のそれを上回ったと史書にある。

 それに比べて日本の城郭は実に「平和的」だ。城が落とされても降伏して城主が自尽すれば戦は終了である。虐殺文化の中国の京城は二重、三重の城壁に囲まれているが、日本の皇居(京都御所)には濠(ほり)一つなかったことは象徴的だ。」

(黄文雄,中国こそ逆に日本に謝罪すべき9つの理由,150,青春出版社,2004

[寸言]日本人には信じ難い大虐殺が当たり前のように宣伝される背景が理解できる.

 

 

[7](三光作戦と万人坑)

 

(三光作戦)

 いま中国は,かつて軍国主義日本が中国を侵略し,三光作戦や万人坑を行って極悪非道の限りを尽くしたと宣伝している.

 三光」とは,殺光,搶光,焼光のことで,それぞれ「殺し尽くす」,「奪い尽くす」,「焼き尽くす」の意味である.日本語では,光は明るく暖かく希望を感じさせる言葉であって,「し尽くす」という意味はない.語感からも,意味からも,そして文化からも,日本軍が「三光作戦」などと命名し,しかも遂行したとは思えない.

 

(万人坑)

 「南京大屠殺記念館が建設された江東門地区は、第六師団隷下の鹿児島歩兵第四十五連隊の戦闘地区である。ここにはいわゆる白骨が堆積している“万人坑”があり、死体を積みかさねて橋をつくり、その上をトラックが往来していたという“死体橋”のあるところであり、避難民、捕虜合せて二万八七三〇人(水上註:説明済み)が虐殺されたところ―典型的な“虐殺現場”―である、と宣伝されている(中略)‥。

 「万人坑」とは何か、中国には古来からあったが日本の戦史にはその例を見ない。司馬遼太郎の『項羽と劉邦』の中にこういう一節がある。「?(あな)(坑)という名詞がイキウメニスルという動詞に使われるほどこの大量殺人法はやがて項羽によって二度、三度とおこなわれたが、しかし、この方法は項羽の独創ではなかった。記録の上では秦の始皇帝が最初であった」(中略)‥。

 この中国の歴史に名高い大量殺害手段を連想せしめる“万人坑”という名称を、ことさらに付し、この白骨はその“万人坑”から掘り出した骨の一部であると称して、これを二個のショーウィンド式ガラス・ケースに納めて陳列したのが記念館の遺骨室なのである。」

(田中正明,「南京事件」の総括,202-203,小学館文庫R--14-22007

 

[註] 秦の始皇帝の焚書坑儒は有名である.ただし,坑儒は儒者を穴に生き埋めにすることではないと滝川政次郎博士は言う.(田中正明,「南京事件」の総括,203,小学館文庫R--14-22007

 「坑(あなうめ)にするというのは、土中に穴を掘って人を生き埋めにすることではありません。黄土地溝帯に人を追い込んで、その出入口を塞ぎ(ふさぎ)、人を餓死せしめることであります。私は北京在住中に開封から洛陽まで軍のトラックに乗って参りましたが、その途中で黄土地溝なるものを実見して、人を坑するという意味が初めてわかりました。黄土地溝には水がありません‥‥始皇帝はこの方法で一挙に二十万人を殺しています‥‥。」

 

[補足1](満洲における万人坑)

 「万人坑とは主に旧満州(中国東北部)の日本人経営の鉱山や大規模な工事現場で、中国人労働者に苛酷な労働を強要した結果、栄養失調やケガ、病気などで使いものにならなくなると、生きながらも捨てた「ヒト捨て場」だとされている

 一九七一(昭和四十六)年、本多勝一記者の手になる朝日新聞連載「中国の旅」で一躍有名になった。南満洲の大石橋にあったマグネサイト鉱石を採掘していた南満鉱業では、推定犠牲者一万七千人という万人坑が発掘され、その上に建設した記念館に累々とした白骨遺体が展示、公開された。(中略)‥。また、満洲最大の炭鉱、撫順炭鉱では約三十〜四十ヵ所、犠牲者数約二十五万〜三十万人というから、万人坑の一つひとつが、文字通り万単位の「ヒト捨て場」ということになる。

 その後、毎日新聞や写真週刊誌などが、犠牲者六万人の大同炭鉱、一万五千人の豊満ダムなどを報じ、やがて日本の高校用歴史教科書にも一時採りあげられた。

 加害者とされた側が事実無根と朝日新聞社などに抗議をしたにもかかわらず、今日に至るまで朝日、毎日そして学者の誰一人として、否定する側を取材の対象としなかったのである。つまり、万人坑報道は中国の言い分を一方的につたえたもので、日本側の裏づけがまったくないものだった。‥(中略)‥。

 しかし、その後も、中国東北部であらたに六十ヵ所の万人坑が発見され、こうしたデータを加えた結果、三千五百万人に達したのだとする中国の主張が変わるわけもあるまい。

 万人坑がデッチ上げだと断じる理由を簡単に説明しておきたい。私の調べたのは、右のほか鶴岡炭鉱など六企業である。勤務経験者を中心にその夫人など約三百人に連絡をとり、資料にも当たった上で得た結論である。なお私の調査後、撫順炭鉱の社友会が全会員一千人の調査を行ない、同様の結論を出している。第一に、万人坑なるものの実物を見た日本人が一人もいないこと、また報じられるような現地人への残虐行為も全面否定していることである。第二に、戦後行なわれた国民政府による満州唯一の瀋陽裁判で、同容疑で刑を科せられた例は一例もなかったし、取調べも逮捕された例もなかったことである。‥(中略)‥。

 万人坑が事実なら、敗戦時に現存していたはずであるから、現地の中国人が黙って見過ごすわけがあるまい。それこそ日本人への報復が頻発し、また多数の日本人が連行され、裁判で極刑を言い渡されたに違いない。また、現場の惨状が世界に向かって発信されていたはずである。だが、このような事実はない。

 この他にも事実無根とする根拠を多数指摘できる。だが中国は各地に展示館を建てては巨大なウソを平然と主張する。そして、産経新聞以外の日本の報道機関、万人坑を事実と疑わなかった学者は、今なお沈黙を守ったままである。」

(田辺敏雄,中国に「『万人坑』『三光作戦』『731』で大量殺戮された」と言われたら,歴史の嘘を見破る―日中近現代史の争点35(中島峯雄編),116-118,文春新書5042006

 

[補足2](日本の満洲統治を中国は「三光統治」と呼ぶ)

 「日本の満洲統治を、中国は「三光」政策と呼ぶ。軍事面では、「殺光(殺し尽くす)」、「搶光(奪い尽くす)」、「焼光(焼き尽くす)」であり、経済面では、「捜光(捜し尽くす)」、「剥光(絞り尽くす)」、「搶光」という。また、満洲国の軍や警察は、「臨陣格殺(反抗する者はその場で殺害できる)」の権限を持っていた、という。

 これらの言葉が日本語でないことは明らかで、もとは、中国国民党と共産党が互いに相手を残虐だと罵るために使ったプロパガンダ用語である。反満抗日ゲリラを日本軍警が何千人も殺したとか、関東軍の財源はアヘンであったとか、現代の日本人も非難するが、当時の中国大陸全土の状況と比較するべきで、日本だけが軍国主義だったわけではない

 「満洲国」のち正式名称「満洲帝国」となった国家が存在した十三年半の間、国内で戦争はなかった。満洲の地が戦乱に巻き込まれるのは、一九四五年八月の日本の敗戦のあと、国民党と共産党がこの地の争奪戦をした、一九四九年までの四年間である。」(宮脇淳子,中国に「日本は満洲を横取りした」と言われたら,歴史の嘘を見破る―日中近現代史の争点35(中島峯雄編),81-82,文春新書5042006

 

 

[8](日本軍が悪辣であればあるほど、中国には都合がよい

 「中国の歴史教育の内容は歴代王朝の易姓革命を縦軸とし、戦争や反乱の記述で塗りつぶされている。ことに近現代史に関しては、日本の中国侵略が中心に書かれている。そして「南京大虐殺」を取り上げ、あたかもそれらが侵略のシンボルとして強調されている

 もちろんそれらは中国政府の政治的意図によるでっち上げの創作である。近現代史教育において、中華人民共和国建国の前提であるところの、共産党や人民の日本に対する正義の抗戦ぶりを強調するため、日本の侵略者は悪辣(あくらつ)であれば悪辣であるほど、残虐であれば残虐であるほど都合がいいのである。

 それにしても、いかに「日本憎し」のためとはいえ、中国の日本の残虐行為のでっち上げ方は、他の旧敵国でも想像に絶するものがある。日本人なら猟奇小説の作家でも、あれほどまでの残虐な話はなかなか思いつかないし、たとえ思いついてもあまりにも非現実と考え、馬鹿馬鹿しくて描けないだろう。しかし、中国人ならそうは考えない。むしろ戦争の残虐性とはそういうものだと信じている。」

(黄文雄,中国こそが逆に日本に謝罪すべき9つの理由,148-149,青春出版社,2004

 

 

[9](中国が宣伝する日本軍の残虐行為は中国人の自画像

 「中国人が日本の「中国侵略」を語るとき、自らの戦争様式、戦争文化を日本軍に当てはめているのである。だから日本軍がおこなったとする老若男女を問わない無辜(むこ)の民間人に対する中国式の大量虐殺があったといい張るわけであり、殺戮の方法に関しては、生きた人体を切り裂き、生き埋めにし、生き皮を剥ぎ、さらには肉を喰らい血を啜(すす)るなど、中国にはあっても日本には見られない戦争文化で物語られているのである

 「南京大虐殺」など中国人自らが行ってきた虐殺行為をモデルにしただけの創作である。「三光作戦」にしても、それは中国の兵士がいつも普通にやってきたことであり、むしろ「三光」は兵士の主要な仕事だった。反対に日本軍はその戦争文化から、「虐殺」や「三光」をもっとも不名誉なことだと信じていた軍隊だった

 戦争文化はそれぞれの民族の生命観と密接にかかわっている。日本人なら自分たちと同じ生命観を持っていた同胞が、いかにいわゆる「戦場の狂気」の只中にあったとはいえ、そのような残虐行為に及び得るかどうかぐらいわかってもよさそうなものだ。

(黄文雄,中国こそが逆に日本に謝罪すべき9つの理由,150-151,青春出版社,2004

 

 

10](中国は日本人も日本の歴史も知らない)

 「中国の長い歴史では、政権が替わるたびに、新政権によって旧政権に属した人間は一族郎党皆殺しにされるのが普通だった。しかし、いくら中国では「征服すれば略奪・虐殺」が常識だったとしても、それは決して日本の常識ではない。なぜわざわざ日本軍は、中国の伝統にのっとって略奪・虐殺をしなければならないのか。つまり、これは日本の歴史をろくに知らない中国政府が発するプロパガンダなのである。

 しかも、このプロパガンダには中華思想の一片も見え隠れしている。中華思想においては、世界最高の倫理をもつのが中国人で、辺境に住む日本人は当然それより劣るとする。だから、日本人が戦争に勝って南京を占領すれば、自分たちと同じこと、いやそれよりひどいことをするに違いない、政府の残党や住民は略奪や虐殺の対象にされて当然という思い込みがあるのだ。まして、自分たちより格下と見下していた国から侵略されたことで、憎悪の念も増している。ここにあるのは「侮日」意識以外の何者でもない。」

(井沢元彦,逆説のアジア史紀行 中国編第五回,SAPIO20051/192/2号,117

 

[寸言] 中国人が描く日本人像が自画像になってしまうのは,中国人が日本人や日本の歴史を知らないからである.だから,日本人が残虐だと言うことは,自分自身が残虐だと吹聴しているに等しい.

 実に滑稽だが,笑ってはいられない.根も葉もないことでも,繰り返し宣伝されると世界に定着してしまう.そうなったら手遅れである.まだ手遅れでないことを祈るが‥‥.

 

 

11](中国の教科書の記述例)

 週刊文春,2005421日号によれば,中国の中学校教科書『中学歴史』(92-95年版)の南京大虐殺の項は次のように記述している.

 《日本の侵略者は至るところで家を焼き、人を殺し、強姦し、略奪し、悪事の限りを尽くした。(中略)ある者は銃剣訓練の対象にされ、ある者は生き埋めにされた。戦後極東軍事裁判によると、日本軍の南京占領後6週間のうちに、身に寸鉄も帯びない中国人住人と武器を捨てた兵士で虐殺された者の数は30万人以上に達した。》

 教科書がこのような悪意に満ちた文章で書かれていることに,日本人はまずびっくりするだろう.そして,その後で黄文雄氏の説明に納得するだろう.この教科書に書かれていることは,まさしく三光である.

 

[註] 既述のように,東京裁判が示した数は,論告では20万人以上,判決では10万人以上である.当時の南京市の人口は約20万人であった.

 

 

12](中国政府が日本企業の「三光」という商標を不許可)

 「中国の国家工商行政管理総局商標局はこのほど、日本企業が薬品の販売に向け申請していた「三光」という商標登録申請を却下した。中国大陸で旧日本軍が敵陣掃討のために実施した「三光作戦」を連想させるとして、中国のウェブサイトで反発の声が上がっていた

 申請していたのは書籍や医薬品などを扱う物流商社福見産業(東京都港区)。「将来、中国で販売できれば」と、日本の和漢薬の名前から引用した「三光」という商標を04年に登録申請したが、今年818日付で同局から却下の通知が届いた。「公衆に対する不健全な政治的影響がある」との説明だったという。‥(中略)‥。

 福見産業の担当責任者は「日中戦争で使われた言葉と知らず、通知を受けてぼうぜんとした。中国の人が歴史を重んじる姿勢の表れだろうがぬれぎぬを着せられたようで残念」と話す。

 香港の人権団体「中国人権民主運動情報センター」は「三光」という商標は少なくとも14社の中国企業が申請、許可されているとし、「日本企業を標的にした不公平な政治判断」と批判している。」

2006.8.26朝日新聞)

 

[寸評] この記事ではウェブサイトの声を紹介して間接的に「旧日本軍が三光作戦を実施した」ことを肯定している.これが「中国の旅」以来の朝日新聞の路線である.しかし,読者に事実を正確に伝えるのが新聞の使命ではないのか.過ちて改むるに憚ることなかれ(論語子罕篇9-25).

 福見産業の担当責任者は「ぬれぎぬを着せられた」と言うが,正確に言うなら「親の因果が子に報い」と思ったのではないだろうか.

 また,「中国の人が歴史を重んじる姿勢の表れ」とも言っている.しかし,「重んじる」意味を本当に理解しているのだろうか.中国が言う「歴史」とは中国共産党にとって都合の良い歴史であって,事実を重んじる歴史ではない.それどころか,政治の道具として重視して,歴史事実を歪曲し,捏造するのである.もし,このことを理解できていなかったのなら,商標登録ができなかったことはむしろ幸いであった.

 同じ「歴史」という言葉で表現されても,歴史は一通りではない.事実に基づいて記述されるヘロドトスの歴史と王朝の正統性を述べる司馬遷の歴史がある.中国が持ち出す「歴史」は司馬遷の歴史である.日本では大半の国民はヘロドトスの歴史が当然と思っているであろうが,歴史学者は必ずしもそうではない.マルクス主義歴史学はマルクス主義を正当化することを目的としており,それなら司馬遷の歴史に分類されるべきであろう.こんな状況では歴史認識共有の努力は不毛である.(参考:岡田英弘,歴史とはなにか,文春新書155,平成13年)

 

 

13](正確な記録がないのにどんどん増える日中戦争中の中国側犠牲者数)

 「日本側が抗弁しないことをいいことに、中国は実にやりたい放題である。例えば日中戦争中の中国側犠牲者数については、もともとこの国は自国民が何人死のうと関心がなく、正確な記録などほとんどない。その代わり外国人が比較的正確な研究分析をしており、米誌「USニュース&ワールド」などは一九八九年の<太平洋戦争五十周年記念号>で「中国側の死者総数は二百二十万人で、そのうち軍人が百三十万人、民衆八十五万人」だと述べている

 終戦当時に国民党政府が公表した文書「対日戦争勝利の結果」もそれなりに、中国側の戦死者を百三十一万九千九百五十八人、戦傷者を百七十六万千三百三十五人としている。

 ところが後年人民共和国政府は、中国人犠牲者は一千万人との公式見解を打ち出し、さらに現在に至っては、江沢民の「決定」による三千五百万人との数値が出されている。実にあからさまな数字操作である。そしてこうした根拠のないものを振りかざし、日本官民に頭を下げさせているわけだ。」

(黄文雄,中国こそ逆に日本に謝罪すべき9つの理由,85-86,青春出版社,2004

 

 

14](戦後、中国人が行なってきたこと‥‥虐殺、戦争、革命の輸出)

 「中国がいうように、日本だけがもしも本当に「侵略国家」であり、「アジア騒乱の元凶」だったとすれば、敗戦後に米軍の占領下に置かれた時点で、アジアには平和が到来したことだろう。しかし、実際は逆の状態になった

 中国では国共内戦が開始され、朝鮮では朝鮮戦争が、ベトナムではベトナム戦争が起こるなど、民族同士の殺し合いという大東亜戦争以上に悲惨な状況となった。他のアジア諸国は別として、中国の例を取ってみても、国共内戦後は三反五反運動、反右派闘争、大躍進、文革と悲惨な騒乱がつづき、飢餓や虐殺で死んだ国民は実に七千万かそれ以上と推測されている。台湾でも一九四七年の二・二八事件で、三万人もの無辜(むこ)の台湾人が中国人によって虐殺されている。殺した大義名分は「日本の奴隷教育の毒素を受けた台湾人が、反中国に走った」であった。

 終戦からこの方、半世紀以上にわたってアジアでは日本だけが、内戦もなく、対外戦争もなければ、それをする必要も、準備する必要もまったくなく、平和を思う存分享受してこれたのは、(中略)‥。

 一方中国は日本とは逆に、内戦、内紛、内訌に明け暮れていただけでなく、戦後もっとも友好的だったはずのソ連、インド、ベトナム等々と十七回も戦争を行い、さらには「世界革命、人類解放」なる勝手な理想を掲げ、世界各地の反政府ゲリラを支援するという、いわゆる革命輸出に精を出し、自らこそが世界革命の中心、世界の兵器工場だとして得意になっていた。」

(黄文雄,中国こそ逆に日本に謝罪すべき9つの理由,41-42,青春出版社,2004

 

 

15](チベットやウィグルでの大虐殺)

 「少なくとも、まともな歴史家が中国の近現代史、特に虐殺の歴史をさかのぼれば、大躍進や文化大革命という1000万人単位の自国民の大虐殺を避けて通れないはずである。チベットや新疆ウィグルなどでは100万人単位の虐殺も行われている。戦時中に南京で起きたとする「虐殺」などとは桁違いのスケールで、ナチスのユダヤ人大虐殺を凌駕する規模である。そこに目を向けず、南京での虐殺ばかりをことさらに騒ぎ立てるのはあまりに不自然であり、その意図は明確である。共産党政権下では歴史研究ができない、歴史家はいないというのは、こういうことである。」

(井沢元彦,逆説のアジア紀行 中国編第5回,SAPIO20051/192/2号,117

 

 

16](米国でも報道された中国の歪曲歴史教育)

 「産経新聞の古森義久氏が、128日付の同紙で、ニューヨーク・タイムズ紙に掲載された興味深い記事を紹介していた。

 それは「中国の教科書は歴史を曲げ、省く」と題する記事で「日本に対して正しい歴史を教えないと叱るが、中国の歴史教科書こそ近年の歴史をきわめて選別的に教え、ゆがんだ見解を提供している」と述べ、実例として以下の内容を紹介している。

  @中国軍はチベットやベトナムに侵攻したのに自衛以外の戦争はしたことがない、と教えている。

  A第二次大戦で日本は米国ではなく中国共産党軍により敗北させられた、と教えている。

  B毛沢東主席が断行した「大躍進」の政策失敗で三千万人も餓死した事実は教えていない。

  C朝鮮戦争は米国と韓国が北朝鮮を侵略したことで始まった、と教えている。

 さらには「日本をたたくことが国民的娯楽」とまで断じている。米紙にして、まさに言い得て妙である。」(斉喜広一,NYタイムズが報道「中国の日本叩きは娯楽」,SAPIO20051/192/2号投書欄,97-98